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高齢者という言葉

 その年も暑い夏だった。7月に逝った仲間は心筋梗塞。その後に逝った友は。この二人に先立って逝った男は交通事故。何年も前になるが、立て続けに逝ってしまった3人の死因は、日本人の死亡原因ランキングの上位を地で行き、世相を反映しているようでもあった。癌、心臓病、脳疾患。ご存じ、日本人の死亡率ベスト3だ。




 一方、車社会にあって交通事故による死者は、毎日のように出て、こうしている今も車の凶器は私たちの周りで牙をむいている。折しも今、秋の交通安全運動の真っ最中。こちらは癌のように本人や家族への≪告知≫もなければ、≪覚悟≫という、ある種の余裕も与えない。突然に襲い掛かって来る。癌も心臓病も、そんなすべてが他人ごとではなく、それと隣り合わせで生かされている自分たちに否応なく気づかされるのだ。




 心筋梗塞で亡くなったK氏は釣りキチだった。晩年は渓流釣り一筋。地元山梨ばかりでなく、お隣の長野や岐阜、さらに富山や新潟…。時間とお金に糸目を付けずにヤマメやイワナと対峙した。片や癌で逝ってしまったN氏は写真。お目当ての被写体があれば、この男もどこからどこまでも飛び歩いた。

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 N氏は、釣りキチが竿や仕掛けに拘るようにカメラに拘った。今の私や、うちのかみさんのようにバカチョンのデジカメなんかではない。何台もの一眼レフの高級カメラを持っていた。モータードライブのカメラも。そんなカメラを詰め込んだショルダーケースの中には、ワイドが違うレンズもいっぱい。新聞社が紙面を割いて主催するフォトコンテストにも進んで応募した。




 いずれも成せる業は玄人肌し。セミプロの技と言ってもいい。趣味も突き詰めていけば、そこにだんだん近づくのだろう。私のような何の取り得もない≪ノンポリ≫には到底、足元にも及べない。趣味は、それが高じれば専門家の域へと入って行くのだ。また惜しい人を亡くしてしまった。




 先の敬老の日を前後して新聞やテレビは、我が国の高齢者のデータを様々な角度から報じていた。「我が国の最高齢者は○○さん。80歳以上のお年寄りは何人。65歳以上の高齢者は…」。総人口に占める割合をも伝えていた。「65歳以上の高齢者、そんなにいるのか」。他人事のようにつぶやいたら、うちのかみさん「私たちだってその中に入るんですよ」。




 ハッと思った。そう言えばそうだ。間もなく81歳になろうとしているのだから、立派な高齢者。でも人間とは勝手なもの。自分は高齢者などと微塵も思っていないのだ。思いたくないのかもしれない。子供の頃とは言わないまでも、30代、40代の頃と少しも変わらないと思っているし、意識の上では青年だと思っている。




 よく考えれば、そんな意識とは裏腹に体は確実に年を取っている。足腰が痛んだり、あっちこっちに故障が出る。つい数年前まで徹夜の麻雀も平気だったのに何時しか、それも誰ともなく億劫がるようになった。酒量もめっきり減った。初七日法要で友をねんごろに送りながら「この後はNの追悼麻雀だ。Nの分まで元気出さなくちゃ…」と。本当の気持ちだった。


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水利権

川
 地球はどうなってしまうのだろう。相次ぐ台風は大量の雨を降らせ、日本列島の河川を各地で反乱させ、甚大な被害をもたらした。ここでは、そのことはさておいて、日常の川のお話。

 
「川」という字は「鳥」などと共に象形文字の典型。大きな「河」と違って、山間の、のどかで、素朴な流れを髣髴とさせ、街の中や田園地帯をひっそり流れる「せぎ」や「小川」をも連想させる。「川の字に寝る」という言葉もあって、字の形がかもし出すイメージは穏やかな日常そのものだ。





 しかし、その川が知らず知らずのうちに変わってしまった。どの川も水量を減らした。そればかりならまだいい。川は汚れる一方だ。洗剤などを多く含んだ家庭雑廃水や工場廃水が川を汚す。工場廃水のたれ流しは法的規制もあって、さすがに減っているが、下水道化が遅れている地方では、どうしても家庭の雑廃水が流れ込む。





 昔は地方へ行けばいくほど、田舎へ行けばいくほど、川を大事にした。川は人々の生活の生命線だったからだ。人はそこで食卓に上る野菜を洗い、顔や食器まで洗った。だから、みんなが川を大事にした。川自体も自浄能力が強く「3尺流れればお水神様が清める」とまで言った。


川2


 無邪気な子どもが川に向かって小便でもしようものなら、大人たちは「おちんちんが曲がるぞ」といって、戒めたものである。ところが、今は子どもを戒めるはずの大人が平気で川に立小便をし、お母さん達は台所の野菜くずを川に捨てる。川をゴミ捨て場と勘違いしていると思えるような若いお母さんさえいる。





 川自体の水量も減った。無理もない。上流にダムが出来、本来下流に流れるはずの水が灌漑用水としてスプリンクラーで畑にまかれ、上水道水になった。水が減れば汚れを滞留させ、酸素を入れないから自浄作用も低下させる。それが、一方で紛争の火種すら起こそうとしている。


川3



 農業形態や生活環境の変化で人々が忘れかけていた「水利権」という≪寝た子≫を起こそうとしているのである。同じクラブでご一緒するロータリアンに、この地方一帯の水利権組合を束ねる連合会の会長さんがいる。彼は頭を抱えながら、こう言う。




 「地域の水にみんなが無関心になった。それをよいことに行政も水利権者と締結している協定を無視、行政だけの都合で水を使おうとする。例えば水道水への転用だ。水道に使ってはいけない、と言っているのではない。そのバランスを考えなければ将来必ず禍根を残す。田んぼを作ろうと思ってもそれも出来ないし、万一火事があっても川に水の流れがなければ消火作業すら間々ならなくなる。挙げ出せばきりがない。水というものは一つの目的ばかりでなく、多様性をはらんでいるのだ」




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 「空気や水のよう」。私達は日常生活の中で、よくこんな言葉を使う。あって当たり前で、その大切さが分からないことの例えだ。しかし、その水が都会にお住まいの方々ばかりでなく、私のように田舎暮らしをする者ですら、時にお金を出して買う時代になっている。ブランド名はともかく、どこのご家庭の冷蔵庫にも一本や二本、水のペットボトルが入っているだろう。遊び感覚だが、富士山頂などでは「空気の缶詰」も売られている。


空気の缶詰


 水代わりのお茶もそうだ。今はなくなったが、山梨では葬式の香典返しにお茶の袋を。しかし、ペットボトルのお茶が、その習慣を≪駆逐≫した。お茶なんかいっぱいあるのに、ペットボトルを買って飲むのに抵抗感すらなくなった。女房に「もったいないじゃないか。あれ使えよ」と、まだいっぱいあるお茶袋を横目に、そんなことを言った自分も、いつの間にか平気になった。



 いつもお邪魔する仲間の家のマージャンルームには家庭用のものをちょっと小型にした冷蔵庫がポツーンと置いてあって、中には清涼飲料がいっぱい入っている。もちろん、コーヒーや各種のジュース類もあって、水やお茶ばかりではない。ペットボトルやカンは便利だ。お茶にしてもわざわざお湯を沸かさなくてもいいから気軽である。





 この仲間はそのお茶やコーヒー、ジュースを自動販売機で売る清涼飲料水販売会社のオーナーである。何台もの車や大勢の従業員を使って、県下各地に設置している系列の自販機を巡回して中の飲料水の管理や集金をしているのである。パチンコ屋さんなど設置場所がいいところに当たれば、一般では考えられないような売り上げをするのだそうだ。お茶やスポーツドリンクなどと並んで水もよく売れるという。

水


 全く別の仲間だが、いつか、こんな愚痴を言ったことがある。


「俺達が汗水たらして売る牛乳は水より安いんだよ。全く、やっていれねえよ」



 この男は富士山の西山麓にある冨士豊茂という所で、牛を何頭も飼う酪農家だ。富士山のすぐ麓だから夏は涼しいが、冬ともなれば一面の銀世界。凍てつく、という言葉がぴったりの寒さの中に巻き込まれる。




 草がある夏場のうちにサイロに牛達の餌になる枯れ草を確保して越冬しなければならない。牛との生活だからハエだつてブンブン。汚いだの、うるさいだのと言ってはいられない。冨士豊茂は山梨県でも最も大きい酪農基地。八ヶ岳山麓の田舎町からここに婿養子に来た男だから、まさに水は空気のようなもの。今の自分の苦労と重ね合わせるから「水が牛乳より高い」現実に割り切れないでいるのも無理はない。


牛乳



 県外から山梨に来たお客さんが新聞などのインタビューに応えて「水が旨いし、空気が旨い」と口を揃えるように言うのを聞くと「なんとキザな」と感じたものだ。しかし、いったん東京など都市部で暮らしてみると、そのことが逆の立場からよく分かる。




 確かに旨い。キザでもなければ、お世辞でもない。たかが、甲府から山梨市の実家に戻っただけでもそれを感じるのだ。しかしその水、旨い、旨いと有頂天になってばかりではいられない。例えば、水道水。最近、滅菌用の塩素が強くなったような気がするのだ。




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≪健康欲≫で食べる

 頭で食べる。決して進んで食べたいと思っているわけではないが、食べているものがある。その一つがゴーヤだ。この付近では「ニガウリ」ともいう。女房は「体のためにいいんだそうですよ。沖縄の人たちが長生きするのもゴーヤや豚肉の料理を沢山食べるからだそうよ」と、いかにも知ったかぶりに言いながら、このゴーヤ料理を出してくれるのだが、私にとってお世辞にも旨い、とは言えない。


ゴーヤ


 我が家では卵や豆腐などと炒め物にして食べる。独特の苦が味と食感、進んでは食べたくないシロモノだ。しかし、何も言わずに食べている。それも全部である。健康のため、という≪欲≫のためだ。酒のつまみにめざしを出させたりする。近くにJAの直売所があって、そこに、ちょっと乾燥気味の旨いヤツが売っているのである。





 これも、健康、という≪欲≫のためだ。ゴーヤもそうだが、栄養的にどうのこうのと知っている訳ではない。若い時は、食べ物に、健康などということを考えなかったが、歳とともに、そんなことも考えるようになるのである。苦い薬でも我慢して飲むように、年齢を重ねれば重ねるほど健康への欲が優先するのかもしれない。





 食卓に上るゴーヤはすべて我が家の自前。ゴーヤばかりではない。春先のこかぶやエンドウ、春菊、夏場のタマネギ、ジャガイモ、トマト、ナス、キュウリ、インゲン、秋のサツマイモ、大根、サトイモ、冬場のほうれん草などみんな自前である。今、食べているカボチャやモロヘイヤもそうだ。百姓の真似事をするようになって、野菜は買ったことがない。


野菜



 高さ約2m、長さ15mぐらいの三角屋根のような棚の両側斜面に張ったネットにゴーヤは今も青々とツルを張り、実をならしている。ほぼ同じ頃に植え付けしたキュウリやインゲンは、もう完全に枯れ、トマトももう駄目。ナスもひところの勢いを完全になくしてしまった。




 キュウリと違って、表面がトゲのようにごつごつして、グロテスクなゴーヤ。いかにも逞しい。その生命力が、それを食べる人間にもいいのだろう。知らなかったが、モロヘイヤも逞しさでは負けない。私の身の丈ほどにも大きく繁茂したモロヘイヤはイメージとは大違い。





 子供の頃から親しくさせて頂いている元教師から頂いたものを植えたものだ。最初は園芸用のポットに植えられた20本ぐらいだったが、若芽のように小さいが故に、グングン伸びるカボチャのツルに覆われて、ほとんどが消滅、残った数本だ。おしたしのようにして食べるのだが、そのネバネバ感が人の健康欲をそそるらしい。これも、ゴーヤと同じように決して旨いものではない。




 三角屋根のようなツル物の野菜作りの棚は、骨組みを竹で作っている。ホームセンターに行けば手軽に組み立てられるパイプ状の材料が手に入るのだが、私は自前の竹を使うことにしている。竹は冬場の12月ごろに切ったものがいいという。虫が入らないのだそうだ。近所の人や知人、先輩に教わりながら、一つ一つ自分のものにしたいと思っている。





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先生と子供たち


学生     女子学生   女学生


 「先生が聖職であろうが、無かろうが、そんなことどっちでもいいじゃあない」。女房から「堅苦しいこと書いて…」と、苦言を呈されたが、出し始めた小便と同じで、途中では止まらない。小便などという言葉をここで持ち出したら「聖職」という言葉といかにもミスマッチ。でも田中角栄氏の「教師聖職論」に戻ることにする。田中が言うように教師は単なる労働者ではない。「ではない」というより、そうあって欲しくないと思っているのだ。そう考えれば、教師聖職論は納得できる。



 子供を持つ親の身になれば、労働者感覚で我が子を教育されたらたまらない。我が子ばかりではない。国の将来を担う子供たちを仮にも疎かに扱われたら困るのだ。特に自我が確立していない小中学生の場合、教師が子供たちに与える影響は計り知れない。ヘンな先生、などと言ったら叱られるが、人間形成の大事な時期に、そんな「先生」に出会ったら間違いなく不幸だ。考えただけでもゾッとする。





 高校時代の社会科の先生で、のちに懇意にお付き合いさせていただいた方がこんなことを言ったのを思い出した。



 「人間、教育の仕方次第で、いかようにも人を変え、作ることが出来る。子供の時期であればあるほど、それがたやすい。子供は純粋で、先生の教えに何の疑いもなくついて来る。高校生や大学生だって10年と掛からずに教育によって右にも左にも変えることが出来る。教育は、そんな魔力を持っているんだよ」

鉛筆おとこのこ      女の子   男の子


 その通りだろう。古今東西、歴史が証明している。我が国だって、いくつもの大きな戦争に導いた、いわゆる軍国教育があったし、隣国でも今なお、外から見れば偏見としか思えない教育を国策としてしているところだって珍しくない。




 教育に「作為」を持ち込むことの怖さはむろん、それとは性格が違うが、教育への情熱に乏しい先生に出会ったら…。これも怖いし、不幸だ。子供は等しく無限の可能性を秘めている。それを引き出すか、引き出さないかは、子供たちと教室でいつも向き合う先生によるところが大きい。先生がちょっと肩を押してやっただけでも子供たちは違った答えを出す。先生は教育に情熱を持ってくれなくては困るし、イデオロギーを持ち込んでは困る。



 
 教育に熱心な先生がいる学校、学級の子供たちは、どこか違うし、第一、伸び伸びしている。それとは逆に無気力先生や、やる気のない無責任先生がいたとしたら…。それこそ子供たちは右にも左にも、どこへでも行ってしまう。そんなことを言ったらお医者さんに失礼だが、同じ「先生」でも医者は患者が選ぶことが出来る。でも教師は子供たちに選ぶ権利は与えられていないのだ。




 学習塾が栄え、私学がどんどんレベルアップしている。そのこと自体は喜ばしいことだ。しかし、子供や親たちが公立学校にソッポを向き始めている現れとしたら、ゆゆしきことだ。私たちは、人の健康や命を預かってくれるお医者さん「先生」とお呼びし、子供たちの学問や人格形成に尽力いただく教師「先生」と呼んでいる。敬意だけではなく「頼むよ」の表れだ。





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教師は聖職?

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 あのロッキード事件で失脚した田中角栄氏が首相の時だったか、それとも自民党幹事長の時だったかは記憶が定かではないが、田中は「教師聖職論」をぶちあげた。「教師は一般労働者とは違う」というのである。日教組は今もそうだが、巨大な組織力と行動力を誇り、当時、それらを背景に教員のストライキまで構えた。政治的には野党第一党の日本社会党と組みし、同党を名実ともに支えた。



 田中の「教師聖職論」は、そんな日教組への牽制であったことは言うまでもない。当時の政府・自民党は「聖職」の裏付けとして教師の待遇改善を図ったことも確か。国民は「聖職」という字面にちょっとした違和感を持ちながらも、教師は一般労働者と違うと受け止めたのである。我が子の教育を労働者感覚の教師に委ねることへの抵抗感は隠せなかった。
学校

 あれから50年。世相は一変した。政界を見れば、保革伯仲を経て、政権を奪われた自民党が再び政権を取り戻して時間が経つ。≪一党独裁≫の様相。短期間とは言え、政権を担った民主党は内部分裂。それを支える労働組合・「連合」のスタンスも変化を見せている。

 民主党は、かつての野党・日本社会党や民社党、それに政界再編の落とし子・新進党などと、自民党の分派が結束した寄り合い所帯であった。一方、労働界は、絶対的な力を持っていた「総評」が姿を変えて「連合」に。総評系は、かつては目八に見て虐げて来た同盟系と手を結び、組織の再編を図ったのである。そのリーダーシップを同盟系が握っているのもまた面白い。



 「お父さん、堅苦しいこと、書いてるじゃあない。お父さんのブログに似合わないわよ」


 暇な女房が後ろから覗いて、こんな無駄口を叩いた。女房の≪内政干渉≫は今に始まったことではないのだが、それが、このブログの第一読者であることに間違いはない。



 「世の中には『行きがかり』というものがあるんだよ。日常の中で、気の向くまま、感ずるままに綴って行く。これがオレのブログの真骨頂さ」



 言い訳がてら女房とこんなつまらぬ会話をした。




 とにかく世の中、良くも悪くも変わって行く。最近、先生たちのストライキはおろか官民を問わずストライキなど見たことも聞いたこともない。東京・池袋の西武デパートのストライキが、自棄に≪新鮮≫に映った。今はなくなったが、かつて国労や動労はゴールデンウイークの真っただ中に≪国民の足≫である電車を止め、物流を担う貨車を止めた。自治労はウイークデイに県庁や市役所に赤旗を立てた。民間労組だって同じだった。そんな時代があったことがウソのよう。




 それどころか三公社五現業のうち、三公社はことごとく姿を消した。国鉄、電電、専売。いずれも民営化され、かつて良くも悪くも労働界をリードしてきた組合は、体質を変えて久しい。大学入試や就職試験によく登場した「三公社五現業とは?…」の出題は、今は昔。懐かしさすらある言葉となった。




 田中角栄氏が牽制した日教組だって、その中身は当時と少なからず変わっているのだろう。ただ、労働組合が政界と深い繋がりを持っていることは今も昔も変わらない。そんな中でも民間労組と経営者側の歩み寄り、話し合いの姿勢は、以前と比べ物にならないほど増した。新しい時代のユニオンの姿なのだろう。





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体罰の是非と教育のツケ

 隣にいる子、つまり幼馴染の頭から一筋の血が流れた。小学校の5年生の時だった。何が原因だったかは覚えていないが、担任の先生が筆箱で頭をコツーンと叩いたのである。その頃の筆箱はジュラルミンで出来ていて、上が半開きに開けられる角ばった物だった。




 それでコツーンとやったものだから力を入れなくても当たり所によって頭が切れて血が出よう。先生の弁解をする訳ではないが、決して向きになって叩いたわけではない。ちょっとした弾みで筆箱の角が当たってしまったのだ。




 血を見た先生は、ちょっとうろたえた。「ごめんよ。お父さん、お母さんに謝りに行こうか」。その子は即座に言った。「僕が悪いんだ。お願いだからうちには来ないで。大丈夫だよ」。


子供


 「僕が悪いんだ」という言葉は、その子の本当の気持ちだっただろう。その一方で「うちに来られたらまずい」と考えたことも確かだ。なぜそんなことが分かるのかって? 先生に殴られたことを親に知られたら「お前が悪いことをしたのだろう」と、今度は親からぶん殴られるに決まっているからだ。その子ばかりでなく、クラスのみんなが分かっていた。





 ここで私が言いたいのは二つ。まず一つは先生の叱りだ。結果的に筆箱の角が当たってしまったのだが、それは教師としての子どもへの戒めであり、決して感情的なものではなかったことだ。そしてもう一つ。子どもが取った態度。というより子どもを通して映し出す親達の姿である。どの家庭の親達も学校や先生達を信頼していた。少なくとも我が子のいたずらや非行を棚に挙げて、学校に飛んで行って噛み付くような親はいなかった。





 こんな姿を現代に置き換えて、こんなことを言う評論家がいる。「親達も高学歴化が進み、先生達と同格意識が強まった」。私はこの考え方は違っていると思っている。≪子ども達との目線≫の勘違いから先生を始とした目上の人たちへの尊敬の念とか、自分中心主義の是非を教えることを怠ったツケが親に表れているのだと思う。つまり、そんな先生に教わった子供たちが親になっているのである。もちろん、すべての親や先生という訳ではない。


親子


 いっぱいあるがもう一つだけ例を挙げよう。今度は中学校のケース。ある時、部活動に使う部室の前で起きた教師の体罰事件だ。先生が部室にあったドライヤーで生徒の頭を殴り、頭を切った生徒が病院に運ばれたというのだ。この事件の顛末を書き出したら長くなるので、その要点だけを書くことにする。




 先生が、久しぶりに訪ねてきた知人と部室の前で立ち話をしていた時のことだ。たまたま通りかかった生徒がすれ違いざまにその先生を小馬鹿にするような言葉を浴びせた。カッとした先生はお客さんである知人が帰るのを待って、その生徒を部室に呼びつけ、ドライヤーでメッタ打ちしたというのである。その先生は普段は教育熱心な先生だった。




 少子化。そこそこの経済力。子どもへの教育投資。先生はもちろん、親達からも殴られることのなかった子どもたちが先生になっていく。もちろんそのことが悪いわけではない。しかし、どこを叩いたら危ないかすら知らない先生がいたとしたら、これこそ怖い。先生は、こうも漏らした。

「中途半端に叱ったら、こちらが、やられる…」。

 生徒たちの体格は、どんどん良くなっている。この先生、生徒と≪対等≫と考えていたのだ。何おか況や、である。





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大根の種

空


 それまでの雨が止み、厚い雲が所々切れて、その合間から青空がのぞく。それを待っていたように、庭の植え込みでミンミンゼミが。この一週間、台風の余波で雨の日が断続的に続いた。その雨は局地的な豪雨となって各地に被害をももたらし、新聞やテレビを賑わわせた。何が原因か分からないが、今年はミンミンゼミが泣き出すのが遅く、お盆を過ぎていた。

 


 セミはこの世に出てきて、わずか一週間でその生涯を閉じるのだそうだ。行く夏を惜しむように、あっちでもこっちでも。夏を惜しむなんて叙情的なものではないかも知れない。泣かねば損だ、とでも言わんばかりだ。限りある一生の真っ只中でこんなに雨に降られたのではたまったものではないはずである。残暑はまだまだとはいえ、差し込む日差しは確実に秋だ。



セミ


 こちらは、その雨を見込んで大根の種を蒔いた。もっと早く蒔かねば駄目、という人もいれば、早過ぎると虫にやられる、という人もいる。ともあれ、この雨が功を奏して大根が見事に芽を出した。ナスや、遅蒔きのキュウリやインゲンを採りに行った女房が「お父さん芽が出てきましたよ」と、言いながら嬉しそうに畑から戻ってきた。


大根の芽



 大根の種を蒔く、というより野菜を作ること自体、全く縁のなかった女房だが、自分も手伝って種を巻いたり、苗を植えたりすると、愛着が生まれるものらしい。よく分かるような気がする。自分自身もそうだが、百姓の倅でありながら≪土≫と生活したのは家にいた高校時代まで。学生時代は東京、サラリーマン時代は一部、韮崎、東京の両支社、支局を除けば甲府で、ずっと≪土≫のない生活だった。





 それが一転、コンクリートの上の生活から≪土≫の上の生活に変わった。下駄や地下足袋、長靴で歩く。雨などで足元が悪い時に便利な高歯の下駄も見つけてきた。毎日≪土≫の上を歩き、野菜作りのための草取りや種まき、苗の移植作業もする。ナス、キュウリ、トマト、カボチャ、ジャガイモ、インゲン、枝豆など夏の野菜は当たり前、サトイモ、サツマイモ、ていも、ほうれん草やエンドウ、こかぶ、春菊。さらに、モロヘイヤやニラ、ニンニク、茗荷、落花生も作る。どうも土壌が合わないようだが、スイカも。


キュウリ



 田舎では昔からかんぴょうなどと共に寿司の芯に用いたイモのツル、地方によっては随喜ともいうトーノイモも作り、初冬に皮を剥いて天日に干したりもする。トーノイモはサトイモと良く似ているが、イモ自体は美味しくない。主にツルを食べるのである。





 今ある柿(御所、富有、甲州百目)に加えて、新しい富有柿とりんごの木を何本か植えた。食用かどうか分からないが、畑の隅々や植え込みのあっちこっちでユリが真っ白い花を咲かせている。やがて、この種が落ち、来年、草取りの時、ちょっと注意して残してやればどんどん増える。今でもユリ屋敷の風情だ。甲州百目は冬場には枯露柿に変わる。



干し柿



 非農家の生まれで、しかも農業などおよそ縁のない生活をしていた女房が最近では畑仕事を手伝うようになった。ちょっと注意すると「私なんかやったことがないんだから・・・」と、言い訳をしながらも結構≪土≫との生活を楽しんでいる。自分も加わって蒔いた種が芽を出して実り、それを料理して食べる。それはやったことのない人ほど楽しいはずだ。





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医者の判断

 リューマチではなかった。血液検査を踏まえた専門医の判断だ。一週間前に採血した血液検査のデータを見ながら懇切丁寧に説明してくれた。


 
 「データを様々な角度から分析しました。その結果、リューマチと診断する根拠は、どこにも見当たりません。症状として出ている首筋や肩、腰や膝の関節が痛む原因は、今の段階では分かりません。とりあえず、この薬を一か月ほど飲んでみてください。副作用はありません」


病院



 医師は現在服用しているリューマチ対処薬ばかりでなく、ホームドクターの開業医が出してくれた高脂血症や高くなりつつある尿酸値への対処薬をも一旦、止めてみることを勧め、言外に体のあちこちの痛みの原因が、その薬の副作用の可能性があることをも示唆した。




 最初に診て頂いた民間総合病院の整形外科医師は「リューマチ性…」と病名を診断、投薬の処方をしてくれた。今度のリューマチ専門医は「違う」という。「どっちが正しいの?」「オレどうしたらいいの?」。




 でも人間とは不思議なもの。ちゃんと一方を選んでいる。このケースの場合、おうおうにして選択肢は後の診断結果なのだ。医者を変えるのは経過が思わしくないからで、診断に少なからず≪疑問≫を抱いているからに他ならない。だから次の診断に≪望み≫を託すのである。

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 私の場合、そこに辿り着く過程では、人間ドックでお世話になった医師のサゼッションがあった。「リューマチ性…」と診断、処方した整形外科医の投薬指示も頭に入れてのことだろう。その薬は「かなり強いもの」だったという。




 血液検査であれ、何であれ、データを基に丁寧に説明してくれると患者側はなんとなく安心する。信頼にも似た気持ちになるのである。「説明責任」。政治の世界や行政の分野でも、よく使われ、その不十分さが指摘される言葉だ。昔から「話せば分かる」という。でもなぜか、この「説明」が疎かになってしまうのが世の常。




 分からないものは「わからない」でいい。決して患者側は、その医師に≪頼りなさ≫なんか感じないし、そう言ってくれる方が、むしろ白紙で≪次のステップ≫に進める。そんなことはあるわけがないだろうが、医師側が自らの診たてに自信がないまま無理やり病名を決め?その上に立って、事もあろうに投薬の処方をしたとしたら…。しかも、その薬が副作用も起こしかねない強い薬だったら…。考えただけでもゾッとする。


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 苦痛を伴えば伴うほど、患者側は藁をも掴む気持ちで医者と向き合う。どんな人でも自分の病にとどまらず、我が子や親、お年寄りなどに付き添って医師の診察を受けた経験はおありだろう。その時の医師の振る舞いは、こちらの側にとっても重要で、その善し悪しが間違いなく医師との信頼関係を左右する。




 医者という仕事は大変だ。私が手放しで信頼している元公立病院院長のT医師もそのお一人だが、寝食を忘れ、患者と向き合っていなければならない。しかし、それと逆の≪事なかれ先生≫がいたとしたら…。そんな先生には間違っても命は預けたくない。





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大自然の小言

日差し


 飛んで鳥にはかなうまい。泳いで魚にはかなうまい。走ることだってそうだ。豹など獣と競ったところで、完敗どころか足元にも及ばない。身近にいる犬や猫でさえ、到底かなわないのだ。その犬や猫を人間たちは愛玩動物だと思っている。


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 植物だって同じ。樹木は三百年、五百年は平気だし、ユネスコの世界自然遺産に指定登録されている屋久島の杉のように何千年もの年輪を刻んでいるものだってある。畑や道端の雑草は、踏まれても、踏まれても天に向かって伸び、夏の暑さにも冬の寒さにも決して負けない。それどころか、ものすごい繁殖力を持っているのだ。少子化の一途をたどる日本人とは違う。

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 そう考えると私たち人間など、たわいもない、の一言に尽きる。この夏、最高気温が35度を超せば「猛暑日」だと言って閉口し、38度を超そうものなら新聞やテレビなどメディアが先頭になって大騒ぎである。かつての福島の原発事故では日本中が、いや世界中の人たちが皆、過敏に反応、≪震源地≫の日本では、まさに右往左往だ。心ない風評被害も収まらない。そして今。原発処理水を巡って、また右往左往だ。


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 ところが、津波で流されてしまった所は別として、付近の山も野原も、木々も雑草も、さらには昆虫や野鳥たちも何事もなかったような顔をしているのだ。それに比べれば人間など非力そのもの。「こん畜生め」と人間の足らざるに地団駄を踏んでみた所で、どうにもなるまい。今日も明日も全く変わらないように泰然自若としている自然界は、こんなことを言って人間たちを嘲笑っているかもしれない。


コスモス2



 「お前ら、人間はバカだねえ。脱原発?自分で造っておいて、ひとたび事故が起きれば、もう降参かい。投げ出す気かねえ。てめえらの中には、その原子力の安全利用を本気で考えたり、それを促したり、バックアップする腹の座った政治家はいないのかね。冷静にそれをしなければならない科学者や政治家が、付和雷同する一般大衆と一緒になって右往左往していて、どうするんだ。国民の付和雷同の原因がそんな政治家にあることに気付かないのかねえ」
 



 「『諸刃の剣』という言葉を知っているかい? お前らが体の具合が悪い時、やたらに飲む薬、あれだってよく効く薬ほど副作用があるんだってなあ。石油や天然ガスなど有限のエネルギーに代わって、てめえらが導き出した原子力。処方箋を間違えれば命取りになることなんかハナから分かっていたはずじゃあないのかねえ」


風景


 「お前さんたちは一時のショックで簡単に『脱原発』などと言う。大丈夫かい。代替エネルギー。言うのは簡単だよ。でもコストは掛かるぜ。それはお前さんたちが税金や自腹で払うんだよ。値上げだの、増税だのと言うと、すぐ文句を言うくせに…。第一、電力の需給がうまくいかなかったら製造業は無論、経済はどうするんだね。最も小さな単位の社会・お前らの家庭を見たってみんな電化だ。電気洗濯機、冷蔵庫も炊飯器や掃除機も。暖房や冷房、テレビだってそうだ。省エネを強いられて生活パターンを変えることが出来るかい」





 この地球上で科学を生み出し、駆使出来るのは唯一、人類。だから自然界を支配しているような錯覚にも。ところがどうしてどうして。あの東日本大震災のような天災に遭遇すれば、グ~の音も出ない。そこにいくと自然界は逞しい。人間どものいたずらの産物、とも言われる地球の温暖化にもジッと堪え、それなりの対応をちゃんとやっているのだ。



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やまびこ

Author:やまびこ
 職場を離れた後は«農業もどき»で頑張っています。傍ら、人権擁護委員やロータリー、ユネスコなどの活動も。農業は«もどき»とはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定もします。でも高い所が怖くなりました。
 ブログは、身近に見たもの、感じたものをエッセイ風に綴っています。

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