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村八分」の逆現象?

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 人権が尊ばれ、その大切さが叫ばれる今、「村八分」などと言う言葉は死語になった。あるとすれば小説の世界でしかない。江戸の頃から何時の時代まであったのかは知らないが、日本のあちこちに、そんな風習が残っていたことは確か。その理由が何であったかはともかく、地域社会の中で、特定の人や家庭をボイコットするという、非情な風習だった。むろん、そこには、それなりの地域コミュニティーとの因果関係があったことも事実だろう。でも、このような非人道的な«人としての阻害»は到底、許されるものではないことだけは確か。




 「村八分」。つまり八分の制裁だから、残る二分は何か。「火事」と「葬式」だという。いくら日常生活の上で制裁を加えても、火事が起きたり、人の死という不幸があったの場合、地域はこぞって応援したというのだ。「村八分」という、言葉の上では非情な制裁の一方で、二分という、人間としての情けは残しておいた。




 ひとたび火事が起きれば、みんなで消火に駆け付け、後始末にも手伝った。不幸が起きれば、みんなで葬式を出してやり、野辺の送りもしてやったという。「村八分」という非情で、差別的、辛辣な言葉の一方で、二分という限られた「範囲」とはいえ、近隣社会の「情」を残していたのである。それが、どんな環境にあろうと、人としての最低限のモラルであったのだろう。




 時代は下って元号が「平成」から「令和」に代わろうとしている今、地域コミュニテーは、大きく変化していることも事実。しかも、その勢いは、時と共に加速して行くようにも見える。火事は自治体消防に任せればいいし、お葬式だって家族だけで済ます動きも珍しくなくなった。いわゆる「家族葬」だ。




 「火事」の場合、自治体消防がカバーする地理的な問題や、財政面から地方、特に山間部では民間の消防団に頼らなければならない現実があるものの、その消防団は地域の人口減少も手伝って、弱体化する一方。いずれは地域コミュニテーが関わる問題ではなくなる。




 何よりも地域コミュニテーに変化をもたらそうとしている要因は「個人主義」の風潮。それがいいか悪いかの問題ではなく、「村八分」などと言う言葉が存在した時代と今は、その在り様が全く逆転してしまったのである。「自己虫」などと言う言葉さえ生まれ、特に都市部では「隣は何する人ぞ」は、当たり前だとか。その風潮は地方にも伝播しつつあるのだ。




 拙ブログで「家族葬」に関わることを書いたら、京都にお住いのRさんから、こんなコメントをいただいた。お顔は存じ上げないが、ブログでの交流はほぼ毎日。




 「…。家族葬は誰もが長生きするようになった(時代の)必然。惜しまれて、この世を去るのは、ある程度年齢的な限界があるのでは…。亡くなったご本人を知らない人ばかりの会葬は遺家族への義理に(過ぎない)…」




 なるほど、と考えさせられた。でも私は、葬儀とは故人の霊を弔う場だけではなく、憔悴するご遺族にお悔やみの心を伝える場でもあると考えている。そんなコメントを返した。兎に角、地域に関わる様々な事象への人々の受け止め方、考え方は世代を問わず変化する。




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樹々の芽吹き

桜2010


 庭の植え込みから隣接の公園・地域の「ふれあい広場」に移植した河津桜は、一足早く堂々の葉桜に。近くに何本もある枝垂桜は、今が満開。ソメイヨシノはハラハラと散って花としての峠を越した。牡丹桜は、まだ、特徴ともいえる重厚感を保っている。




 一口に「桜」と言っても、それぞれが織りなす風情は、またさまざま。人間に早伸びの子もいたり、遅伸びの子がいるように自然界の全てが、それぞれが持ち合わせた特性で動いて行く。気温の違いなど環境によっても、微妙であったり、大きくも異なる。だからこそ、人の眼に、人の心にバリエーションをもたらすのだろう。




 一足早く葉桜に変わって久しい河津桜は、甲府盆地の、もっと言えば埼玉県に近いと言った方がいい、この辺りでは開花時を例にとっても、ちょっと違和感がないでもない。もう十何年も前、女房と伊豆方面を旅した時、僅か1mぐらいの苗を買ってきて、庭の植え込みの隅に植えたのが始まり。ソメイヨシノなど、この辺りの桜とけた違いに早く咲き、葉桜に。




 今では移植した公園で幹も太くし、10m近い大きな木に育った。葉桜に変わったが故に、今も花を残す周囲の枝垂れ桜やソメイヨシノの間にあって、ひと際、存在感すら漂わせている。常緑樹の松や、生け垣になっている山茶花などに「初夏」は感じないが、若葉の河津桜には、否応なく、それを感じ、季節の移ろいを身近なものにしてくれるのである。




 一足早く堂々の葉桜に変身した河津桜の一方で、植え込みの樹々も一歩一歩「衣替え」の準備を急いでいる。花の先発・梅は一足早く緑の若葉を出し、楓も何時か知らぬ間に芽を吹いて来た。その足元では黄色や白の水仙が。よく見るとその花から花へと真っ白い蝶々が渡り歩いている。目には見えない口で蜜を吸っているのだろう。これだって初夏への移ろいの一コマだ。




 楓、と一口に言っても幹の太さも違えば、背の丈も違う。ここで面白いのは芽吹き方や芽吹き時の色。ポピュラーな緑もあれば、赤や深紅のものも。詳しいことは分からないが、種類そのものが違うのだろうから当たり前としても、その様は興味深いし、第一、人の目を間違いなく楽しませてくれる。植え込みの樹々だから全てが葉っぱっを落とした冬の間に他の樹木と一緒に剪定を施しているので、樹の形も整っている。




 果樹王国・山梨。とりわけ甲府盆地の東部に当たるこの地方は桃の一大産地。桜を追っかけて咲いた桃の花が一面をピンクの絨毯に織りなしている。そのピンクの絨毯は、気温差から平地を次第に山へと昇って行くのである。その合間、合間には黄色い菜の花も。自然界が織りなす、この時季の大きなキャンパスは、言葉に例えようがない。ピンクの花が緑の若葉に変わるまでには、まだ合い間がある。

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 庭の植え込みや身近な風景から目を転じて周囲の山々を望むと、真っ白く雪を冠った富士山はむろん、前衛の御坂山塊も«音なしの構え»。沈黙を守ったまま。しかし、山の樹々だって芽吹きの準備に余念がないはずだ。「山燃ゆる」は小説の世界。一般的には「山萌ゆる」だ。初夏特有に周囲の山々が淡く萌え出す時期も間近だろう。




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片付け上手は捨て上手?

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 時折、テレビに登場する、いわゆる「ゴミ屋敷」。その姿を赤裸々に追うカメラの眼線は、周囲の非難の声を前提にしていることは、むろんである。「ゴミ屋敷」とはよく言ったものだ。ゴミの山は、玄関口はもちろん、庭先や、公共の場でもある道路まではみ出している。カメラは家の中までは入らないが、推して知るべし。余計なお世話かも知れないが、この家の主は、どのようにして家の中に出入りし、寝起きをしているのだろうか。他人(ひと)事ながら、心配になる。




 ところが、当の«主(あるじ)殿»はインタビューのマイクに向かって、「これ、みんな、私の宝物なんだよ」と、周囲の非難の声も、どこ吹く風。最後には「オレの勝手じゃあないか。お前ら、うるさいんだよ」と、悪態まで言ってのけるのだ。使い終えたペットボトルや紙コップ、鍋、窯、布団や毛布、缶ビールの空き缶、段ボール、自転車や古タイヤ…。ないものはないと思えるほど。中には食べかけのコンビニ弁当まで。




 テレビだから悪臭は伝わってこないが、そこから周囲に放たれる悪臭も容易に想像出来る。目を背け、鼻をつまむ近隣の方々の気持ちは遠く離れた茶の間でテレビを見ている«お気楽男»にも分かり過ぎるほど分かる。皮肉な言い方をすれば、周囲の眼とか声にお構いなく生きることが出来る人は«幸せ»かも知れない。




 パソコンに向かって、そんなことを綴っていることを知らない女房が私の晩酌と夕餉の後始末をしながら、こんなことを。


 「お父さん、パソコンの両脇の書類や雑誌の山を片付けないと、今に崩れますよ。まったく…。何度言っても分からないんだから…」




 「ゴミ屋敷」などと他人様のことを、非難しながら綴っている自らに気付いて瞬間、ハッとした。女房が言うようにパソコンを挟んで両脇には各種の会議資料や、通知文書、雑誌、興味を引く記事が掲載された新聞などが山となっている。年の勢も手伝って最近、読書量はウソのように減ったとはいえ、時折買ってくる本も。両側に設けた本棚が満杯のため、これも書類の山へ。




 女房が言うように、その都度、始末すれば山とならないのだが、「後で参考になる」とか「忘れないために」などと考えて、積んで置くのである。とどのつまり、積み重ねたものは役に立ったためしがないのだが、それを繰り返すのだ。よく考えたら「ゴミ屋敷」の偏屈オヤジと、本質的には変わらない。人間が持ち合わせる«性(さが)»かも知れない。




 亭主の世話を焼く女房にしたって同じこと。嫁入りの頃からのものも含めて、何本もある箪笥の中の着物やジャケットは、まさに「箪笥の肥やし」。考えれば、毎日目に見える机の上の書類の山よりひどい。何かの折に「どうせ着ないものならタンスごと捨ててしまえ」と言ったことがある。普段、目に見えないので、箪笥の中に何があるかも完全に忘れている。




 積んだり、仕舞い込んだものは総じて使わない。ズボラな私たち夫婦に限らず、人間多くはそんなものだろう。片付けの秘訣は捨てること?かも知れない。これ、ホント…。





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薀蓄のある?言葉

 「いればうるさい、でも、いなきゃ寂しい」

女房のさりげない一言だが、言い得て妙。大げさだが、薀蓄すら感ずる。亭主とは、また、夫婦とは、よく考えてみればそんなものかもしれない。


夫婦


 この言葉は、今は家を空けることなど以前と比べればめっきり少なくなったのだが、それでも仲間との一泊二日、二泊三日の小旅行、飲酒運転が出来ないので宿泊形式でする忘年会や新年会、それに、時折はもつれ込んでしまう徹夜マージャン、そんな時の女房のちょっとした台詞だ。




 若い頃というか、サラリーマン現役時代は、そんな事を言ったり、ましてや感心したりしている心の余裕や暇はなかった。朝起きれば決まった時間には家を飛び出し、帰宅する夜も遅い。時には午前様だって珍しくない。それが当たり前だから、正直言って家も女房も省みたことはほとんどなかった。


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 仕事が終われば、仲間と居酒屋へ。仕事をめぐって青臭い議論もすれば、上司や先輩を酒の肴に愚痴も言う。はしごの先に行き着くところはマージャン荘。そこから先はお決まりの午前様。家で待っている女房達はともかく、自分たちにとっては格好のストレス解消策だった。そんな事を繰り返していても疲れなかったし、逆に生き生きしてさえいた。もちろん、振り子のような規則正しい人間もいないわけではない。が、そんなバカなサラリーマンが多かったことも事実。


サラリーマン


 こんなことを言ったら世のお父さん、お母さんから白い目で見られ、ひんしゅくを買うかもしれないが、ここで白状すれば、一人娘が顔を見るたびに、大きくなるのがよく分かった。仕事柄、朝や昼、夜が不規則だから、幼い娘の顔を見ることが少なかったからだ。娘側から見れば、私は時々来るどこかのおじさんみたいなものだったのかもしれない。


子供


 こんな事があった。娘が幼稚園の頃だっただろうか。ある日曜日、娘が友達の家に行ったら、そこには、お友達のお父さんがいて、子ども達と一緒に犬小屋を作り、一緒にインスタントラーメンを食べた。それが、うちの娘にはびっくりするほど特別の事に映ったのだろう。家に帰った娘は母親である女房にそのことを話したという。




 ハッとした。これじゃあいけない、と思った。それからは、時間を見つけては少なからず娘と遊ぶことを心掛けた。休みをやりくりして海にも行った。運動会や幼稚園の父親参観にも顔を出してやった。その時の、娘の嬉しそうな顔を今でも忘れられない。その娘が今では1児の母となり、このブログ作りやパソコンの先生の一人でもある。その子供、つまり孫娘は今月(4月)10日で6歳になった。



 夢中と言ったら大げさかもしれないが、そんな若かりし時期、女房だって「いればうるさい、いなきゃ寂しい」なんて、感傷的なことを言っている暇もなければ、余裕もなかっただろう。そうとは思いたくないが、歳をとった証拠かもしれない。それに、甲府での生活から一転、田舎生活のせいかも。それにしても、夫婦とは空気のようでいて、空気ではない妙なものである。

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初夏への序奏

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 桜が散り始める頃になると桃の花が咲き始め、甲府盆地は一面がピンクの絨毯の様相を見せる。桜と言ってもこの時季、ソメイヨシノもあれば枝垂桜もある。彼岸桜や八重桜はひと足早く散った。ソメイヨシノが淡いピンクとすれば枝垂桜のそれはもっと濃い。花そのものも重厚だ。花は散る。「散る桜 残る桜も 散る桜」 。


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 今年は桜の開花が,
ちょっと遅れたせいもあって、いつもならその後を追っかけるはずの桃の花がほぼ一緒に花開いた。ご存知の方はご存知。桃の花は桜のピンクより色合いはずっと濃い。枝垂桜のピンクよりもだ。窓越しの庭先ではシバザクラが赤に近い小粒なピンクの花をいっぱい咲かせ、その隣では何という花か知らないが、白い花を可憐に咲かせている。細い葉っぱはニラのそれによく似ている。葉っぱの臭いも同じだ。



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 ピンクの絨毯の向こうに眼をやれば、前衛の御坂山塊の向こうに富士山が。真っ白い雪をかむっている。先日、里に降った雨も3,000m級のそこでは雪。下界の春爛漫をよそに一人、厳冬を装っている。ピンクの絨毯の間に間に真っ白いスモモの花が。盆地の東部一帯、一面の桃園にあって、ちょっとしたアクセントでもある。上空にそびえる富士山の雪とピンクの絨毯、その所々に点在する白いスモモ畑のコントラストがまた絶妙。 富士山から南西に眼をやれば、まだ雪を戴く南アルプスが、日増しに柔らかさを増す陽光に光る。


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 スモモやブドウもさることながら甲府盆地は、言わずと知れた桃の産地。果樹農家は桜の花を愛でる暇もなく、その授粉作業に追われる。農協などを通じたり、それぞれが用意した花粉を元に桃の花一つ一つに受粉して行くのである。花に埋もれながらの作業だから傍目には優雅だが、お花見気分とは違って、こちらは飯の種。家族総出の作業に追われるのだ。




 昔は、こんな煩わしい授粉作業などしなかった。しなくてもよかった。花から花へと飛ぶ蜂がいつの間にか、その役割を果たしてくれた。ところが、その蜂がいなくなった今、人間様が自らの手でするよりほかはない。いわば自業自得。人間達が農薬の使用で蜂を皆殺しにしてしまったのだから仕方がない。農家は無駄花を取り除きながら花の一つ一つに丹念に花粉をつけて行くのである。授粉が済んで、実を結べば摘粒の作業が待っている。



 岩手地区というのだが、甲府盆地東部のちょっと高台に位置するこの辺りは桃というより、サクランボの産地。甲府の市街地を挟んで盆地の西部に位置する南アルプス市の白根地区と並ぶ一大産地なのだ。その植生から山梨はサクランボ栽培の南限。本場・山形との気候的なタイムラグを生かしての戦略が功を奏して押しも押されぬ産地としての地位を確立した。



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 特に、山付きの傾斜地一帯には白いビニールハウスが広がり、その中では真っ赤に実を膨らませながら間もなくやって来る出荷期を待っている。こちらは春爛漫を通り過ぎてもう初夏のたたずまいである。23~4日頃には初出荷を向かえ、京浜地方などからの行楽客がサクランボ狩りに繰り込む。露地物のサクランボも、これを追いかける。露地のサクランボも白い花を付け始めた。ハウス物を皮切りに初夏にかけてのサクランボシーズンが幕を開ける。



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散る桜・・・

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 自然界は、春から初夏へと着実に歩みを進めている。春の穏やかな風にハラハラと散っていたソメイヨシノは、いつの間にか葉桜に。「散る桜 残る桜も 散る桜」。ちょっと離れた所で咲いている桜も時間の問題でその道を辿るのだろう。




 桜は散り際がいい。もちろん、春を告げるように一輪二輪とそっと花開く開花期もいい。満開の桜は壮大だ。風流人でなくても花を愛で、花見酒としゃれ込みたくもなる。花見酒の盃に一片の花びらが。これを風情と言わずして何が風情か。誰しもが心ウキウキする開花期、これとは対照的に散り時の桜は、人間どもを感傷的にもしてくれる。


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 万葉の時代から日本では、花といえば桜。あまたある花の中で、桜は花の代名詞なのだ。寒い冬から人々を解放する人間の営みの指針にもなってくれるし、最後の散り際を人々は人間哲学にも置き換えるのである。桜の散り際は、それほど見事だし、潔く(いさぎよく)もある。


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 「遠山の金さん」、「忠臣蔵」・・・。かみさんや娘に笑われるほど私は時代劇が大好き。「忠臣蔵」は、あの討ち入りの12月にならないとテレビでもやってくれないが「水戸黄門」は今でもちゃんと見る。時代劇に登場するのが決まって桜。「忠臣蔵」の序盤、浅野匠守の切腹の舞台にも桜が。「遠山の金さん」は背中から胸、二の腕に掛けての刺青を悪者どもに見せて「えい、えい、野郎度もこの桜吹雪を…」と、あの名台詞でクライマックスを迎えるのだ。「オジサン、単純だね」と、笑われるかもしれないが、これが何とも小気味いい。日本人は刺青をヨタ者の象徴として敬遠する。しかし、桜の刺青にはなぜか寛容なのだ。


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 もう10年ぐらい前のこと。かみさんと連れ立ってアラスカクルージングの旅に加わる途中、その出発点になった米・シアトルでワシントン大学をお訪ねした。ここで見た桜並木。三木内閣の時代だと言うが、日本政府が日米の友好の証として贈ったものだという。大学の構内で40数年の年輪を刻み、立派に息づいていた。




 その下を歩く金髪の学生さん達。決して違和感あるわけではないが、桜はやっぱり日本人の方がよく似合う。これも単純な先入観かもしれない。例えば、金髪の米国人に満開の桜を愛でる感覚はあっても、散り際の風情、ましてや潔さ(いさぎよさ)など日本人の哲学にも重ね合わせる奥深い心は理解できまい。


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 「サクラサク」「サクラチル」。電話も十分普及していなかった時代、郷里を離れての大学入試の後、古里の親達に打電した合否の電文。今は人々の誰のポケットにも入り込み、試験のカンニングにまで使われてしまうケイタイ。その落差、メディアの進化は隔世の感があるが、そこに居る人間、学生達の営みはそれほど変わってはいない。




 今年も悲喜こもごもの春に一定の区切りをつけ、ある者は晴れて入学式の晴れ舞台に臨んで大学の門をくぐり、ある者は捲土重来を期して歩みを始めた。この時季、毎年繰り返される光景だ。そんな社会の現実にも、まだ、8年前のあの大震災の影が。震災を巡る発言を決め手に一連の不用意な失言で大臣の首が飛んだ。言う方も言う方。それをあげつらう野党の先生方も先生方。散りゆく桜は今年のこの時季をどう見ているのだろうか。




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おじさんオタク

パソコン


 「俺、オタクかなあ・・・」

 「お父さんねえ、こんなに歳取ったオタクなんて、いっこないじゃあありませんか。イメージ的にも合いませんよ」

 「そうだよなあ~」


 晩酌を早めに切り上げ、いつものようにパソコンの前に座りながら、女房と話すともなく、こんな会話を交わしていた。カウンターを隔てて居間と一続きの台所。それに書斎もワンフロアーになっているから、ちょっとしたつぶやきも聞こえる。




 パソコンを置いてある所は、もちろん書斎などといった、たいそうなものではない。外の景色がよく見える窓に向かって特製の机と書棚を備え付けただけ。すぐ後ろにはベッドもある。ものぐさ夫婦にはうってつけ。それ程広くもないワンフロアーの空間で日常の生活が足りるのだ。女房は台所で夕餉の後片付けをしている。洗い物の音も聞こえるし、私のオタク発言に笑っている女房の姿が後ろ向きでも手に取るように分かるのだ。




 パソコンを覚えて11年半。覚えてというより「習って」といった方がいい。「60の手習い」というが、私の場合65になってから。パソコンに詳しい高校時代の同級生の勧めだった。私はその男を「師匠」と呼んでいる。とにかく不思議なもので、何事にも遅ボケだから反ってハマルのかもしれない。パソコンは当然のようにインターネットに導いた。ブログも開設した。10年半が経つ。だらだら飲んで女房に嫌がられた晩酌もさっと切り上げるのだ。




 ブログは一日置きに更新する。それが日課となった。記事量はワードのページ、1ページ分と決めている。400字詰めの原稿用紙に換算したら3枚程度だ。「もっと短い方が読み易い」。ありがたいことに何時も読みに来てくれている親しい人はそんなことをいってくれるのだが、頑固にその量にこだわっている。


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 最初は誰も読んでくれなかった拙ブログも一人二人と増え、今では毎日60~80人、多いときには100人近い人にお読みいただいている。ありがたい。出来ることなら、お一人、お一人に頭を下げ、お礼を言いたい気持ちだ。




 物事、継続することは意味がある。最初の頃、「いつまで続くことやら・・・」と半ばバカにしていた女房も、今ではプッツリそんなことを言わなくなった。むしろ寒い時など気遣って後ろから半纏(はんてん)を掛けてくれたりもする。嫁にいった娘も陰に陽に教えてくれる応援団だ。



パソコン


 こんなアナログおじさんでもハマルということは恐ろしい。インターネットに接続しては、あっちこっちをクリックしてみるのだ。そこに、また新しい発見があるから面白い。「へえ~、こうすればいいのか」。アナログ人間には見ること成すこと、みんな新鮮。おじさんオタクの気持ちが分かって頂けるだろうか。因みに、オタクとは、ある趣味や物事に特別な関心を持つが、他の分野の知識や社交性に欠けている人のことを言うのだそうだ。おじさんはそこまで行っていないので、オタクとは言えないかも。




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出会いと別れ

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 就職や進学、さらには官、民を問わない人事異動。一年中でも最も人の動きが激しい四月。住み慣れた学び舎や職場に別れを告げ、身も心も新たに、それまでと違った人生を歩み出すのである。そこには卒業式や入学式、送別会や歓迎会もある。花束を渡す側、受ける側。みんな「出会い」がもたらした「別れ」であり、「別れ」がもたらす新たな「出会い」でもあるのだ。


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 幼い頃だった。ラジオからだったか、こんな歌が今でも脳裏に残っている。「♪逢うが別れの最初とは 知らぬ私じゃあないけれど…」。多分、題名は「別れの磯千鳥」。どなたが歌ったかは記憶にないが、恋歌であったことは確か。ロマンチックな恋でなくても、人生とはそんなもの。長いと捉えるか、短いと捉えるかは、人それぞれにしても、出会いと別れはみんなに共通。人生は、それがあるから変化があり、楽しくもあり、悲しくもあるのだ。




 つまり、人生には出会いと別れは付き物。一番身近な親兄弟にしても、いつかは必ず別れがある。親しい友だって、どちらが先かは別に、それに遭遇する。身近な人であればあるほど別れはつらい。それなりの愛情や親しみを持っているからに他ならない。だから、そこに涙を伴ったり、惜別の念に駆られたりするのだ。




 それが癒されるのは新たな出会いだろう。それによって心はリセットされ、新たな日常が生まれるのである。進学や就職、さらにはサラリーマンの人事異動…。新たな人の出会いと言う意味では同じで、大きな意味では、別れと出会いで、それぞれの社会がリセットされていくのである。




 四月一日付で甲府から岡山に栄転した、ある官公庁の長。身も心も、さらには周囲も、全てがリセットされた職場で、緊張気味で職務に励んでいることだろう。そんなことを思い起こしたり、気に掛けることが出来るのは、出会いがあって、別れがあったからに他ならない。




 結果的には、遅かれ、早かれ、別れに繋がる出会いとは摩訶不思議。名刺を交換しただけで通り過ぎる人もあれば、たまたまの出会いが一生の友となることだってある。名刺を交換、確かに出会った方でも、しばらく経って、その名刺を拝見しても、お顔が思い浮かばない方だっている。恐らく相手側も同じだろう。名刺と言うものは、ちょっと乱暴な言い方かも知れないが、一時(いっとき)のものだ。でも、出会いの始まりであることも間違いない。




 甲府から岡山に転勤したK氏。最初の出会いの名刺交換の時「私の名前は(野球フアンならご存知の)山本浩二より«ヒットが一本»(一画)少ないんです」と。私も広島フアンだったので、妙に印象に残り、以来、2年間、親しいお付き合いをさせていただいた。彼の執務室でコーヒーをご馳走になりながら、仕事絡みの話をしたり、時には居酒屋で深夜までお酒を酌み交わした。彼の部下たちと一緒に我が田舎家にお泊りいただいたことも。




 二人は官と民。年齢も、職場をとっくにリタイアした人間とは20歳近くも違う。人の出会いとは面白い。ただ出会っただけでは「その後」はない。「新しい職場でも頑張ってくださいよ」。そんなことを考えながらブログを書いている自分。人の出会いとは不思議だ。




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身代わり地蔵

 主催者の代表はこんな挨拶をした。

 「かつてはこの付近で頻繁に起きた交通事故がピタリとなくなった。この身代わり地蔵さんのお陰。でも他力本願ではいけない。みんなで交通事故に遭わないように、また起こさないように注意をしよう」


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 隣村の辻とも言える所にある身代わり地蔵さん。今年も春の彼岸に合わせて、その供養行事が行なわれた。周辺住民はむろん、周辺地域の区長や警察、交通安全協会、公民館などの代表が参列しての身代わり地蔵尊祭である。



 僧侶の読経のあと、参列者が次々と焼香、この付近で起きた交通事故の犠牲者を供養し、これからの交通安全、地域の安寧を祈願するのである。お地蔵さんにはオレンジやバナナ、和菓子などの供物のほか、なぜか大きなお供え餅も。「交通事故に遭いませんように」。女教師に引率された20人ほどの小学児童もお地蔵さんに向かって可愛らしい手を合わせた。


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 お地蔵さんが鎮座しているのは、何処にでもありそうな市道沿い。荒神崎の名の通り、小高い丘のような山が御崎のように突き出しているところだから、道路も緩やかにカーブしている。今は近くにバイパス道路が出来て山梨市の市道に格下げされたが、かつては国道(141号線)。そんな道路の立地条件が災いしたのだろう。頻繁に交通事故が起き、立て続けに何人もの犠牲者が出た。これを憂えた地元の人たちは、身代わり地蔵を祀り、交通安全を祈願するようになった。付近は甲府盆地の東部ではちょっとした桜の名所。もちろんお地蔵さんとは何の関係もないのだが、桜の苗木を植え、桜の名所に育てたのは同じ地域の人たち。お地蔵さんと同じように、優しい心で見守って来た。


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 毎年、地域の人たちは一山と言ってもいい広範囲に立派に育ったソメイヨシノをライトアップ、今では近郷近在からの花見客で賑わうようになった。昼も夜も花見の宴が。その桜もボツボツ満開。まさに見頃だ。身代わり地蔵さんも一服して「お花見」と、洒落込んだらいかが…。。




 身代わり地蔵とは、その名の通り、祈願した人の身代わりになって傷病苦を背負ってくれるのだという。交通事故の頻発をきっかけに祀られたこの地蔵さんもしかり。全国各地に点在する。地域の人々は「地蔵尊」として大切に祀り、供養している。伝えられるご利益も少なくない。現に私たちの地域ではこんな話が。


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 自転車で通りかかったご婦人がよろけて近くを流れる小川に自転車ごと落ちそうになった。ところが、その瞬間、後ろから目には見えない力が働き、難を逃れたという。身代わり地蔵厄除け地蔵トゲ抜き地蔵、長野県には病気もせず、苦しまずに死ねるという「ピンコロ地蔵」も。ありがたい地蔵さんは巷にいっぱいあるのだが、よく考えると人間とは自分勝手。あれもこれもと頼み込む。その願いを聞くお地蔵さんは大変だ。




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「絶対」の宿命

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 このところ暗い話ばかりで恐縮。それほど、親しかった友の死がショックだった証かも知れない。世の中に絶対という言葉があるとすれば、「生あるものは必ず死ぬ」と言うこと。それが早いか遅いかの違いで、「絶対」の宿命なのである。そんなことは誰しも分かっているのに、ビックリしたり、悲しんだり、悔やんだり…。




 それは、可愛がっていた犬や猫、小鳥に至るまで、すべての動物にも通ずることなのだ。愛玩動物ならまだしも、親兄弟、親しかった友人、知人なら、そのショックは何十倍にも何百倍にも膨れ上がる。「在りし日」を思い起こしながら惜別の念に駆られ、涙を流し、かけるべき言葉さえ失うのである。犬や猫と違ってお互いの意思が疎通する言葉があったり、心があるからに他ならない。それが深ければ深いほど、大きければ大きいほど、悲しみや惜別の念は倍増するのだ。




 別れの最後の儀式は葬儀・告別式。祭壇の遺影に手を合わせて、束の間とはいえ、在りし日を偲び、焼香をして故人を弔う。葬送の流れの中で、瞬時とは言え、ご遺族にも、そっとお悔やみの言葉を。人間、不思議なことに、この一連の儀式が済むと、それまで心の中に重くのしかかっていた«様々な想い»が軽くなり、斎場を後にすることが出来るのである。




 人間の心の踏ん切りと言うものは、これまた不思議。一連の葬儀の中で、火葬やお骨拾いなどがる。親族や極親しい人たちによる儀式なのだが、この二つには参列者の意識・態度に歴然とした違いがある。僧侶による「お別れ」の読経が済み、棺が火葬炉に導かれる瞬間。火葬炉の扉が閉まるまで、特に身近な遺族は泣き崩れるのだ。




 ところが、それから一時間数十分後の、いわゆる「お骨広い」。そこで涙を流す人は誰もいない。施主は菜箸のような長い箸でお骨を受け取り、骨壺へ。まるでゲームをしているようだ。人は屍になっても肉体と言う形がある時と、骨になってしまった時の心の持ち様は180度違うのである。その意味では、火葬は「決別」にはふさわしいのかも知れない。


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 昔、自宅葬で土葬の時があった。自宅での告別式を済ませた後、みんながお寺まで列をなして「野辺の送り」をした。墓地では隣組の当番「穴っ掘り係」が上手に掘った墓穴に縄に掛けた棺を下ろしていく。この時の光景は火葬炉の場合と同じ。ただ、火葬炉の場合は、ボタン一つで扉が閉まるが、土葬の場合、土を掛けなければならないから、時間を伴う。その間の遺族の心中は言わずもがなだ。棺にしがみつき、泣き崩れるのである。




 自宅葬から斎場葬。それと時を同じくするように土葬から火葬へ。野辺の送りもなくなった。だから遺族を除いて故人の墓地が何処にあるかも知らなくなった。お寺というお寺の墓地には、かつての墓標が姿を消した。それに、事の善し悪しは別にだんだん増える家族葬。葬式の在り様は、人の心の在り様まで変えて行くことは間違いない。




 「♪夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る お手々繋いで…」


 お寺はむろん、社会や人の心の変化によってそんな光景は姿を消していく。寂しくもあるが、それが現実なのだ。第一、少子化が進む田舎では、その子供すらいなくなる。




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やまびこ

Author:やまびこ
 悠々自適とは行きませんが、職場を離れた後は農業見習いで頑張っています。傍ら、人権擁護委員の活動やロータリー、ユネスコの活動などボランティアも。農業は見習いとはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定も。でも高い所が怖くなりました。
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