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神頼みの心

鳥居


 本当に祈っているのかと言うとそうでもない。それでは祈っていないかと言うと、それも違う。頼みごとも同じだ。先頃の初詣や、普段、旅行などで寺社、仏閣に参拝した時の心の内だ。神様を信じているとか、いないとかではなく、なんとなく手を合わせ、なんとなく賽銭を投げて、手を合わせている自分に気付く。私だけだろうか。


おみくじ
 ズボラではないとは言い切れないのだが、私自身、そんなにもズボラではないと思っている。だが、はたまた、日常の生活の中で、身近にある神棚に向かっても、これとまったく変わりない自分に気付いて「おれって、ちょっとヘンかな」と思ったりすることがある。そんな私と比べ、女房は毎朝と言えばウソになるが、よく仏壇と神棚に水を上げ、手を合わせている。だから、私だけがおかしいのだろう。
 そんな私でも、神棚の祭り方でずいぶん迷ったことがある。勤めを定年で辞め、甲府から山梨市の実家に戻る時のことだ。私の実家は祖父の時代に建て替えたという築90年以上の昔風の田舎家。大きい事は悪くはないのだが、幾つもの部屋という部屋はみんなふすまや帯戸一枚の仕切りだけ。住みにくいことこの上ない。
障子12



 このふすまなどを取っ払えば、一つの大きなホールになってしまう。その上、天上が高いから、夏場はいいのだが、冬は寒くてしょうがない。そこで、女房とも相談、一部を生活し易いようにリフォームした。全体に手を付けたら収拾が大変だし、第一、費用だってバカにならない。

 居間とキッチンはカウンターを隔ててワンフロアーにし、さらに、そこと、ひと続きの所に書斎とベッドを設けた。つまり、キッチンを伴う居間と、寝室として区切らないベッドと書斎のある部屋は4本の引き戸で自由に開閉できる、文字通りのワンフロアーにしたのである。

 もちろん、それはそれでいい。ところが、はたと困ったのが神棚の取り付け場所だ。神棚の置き場所にはいくつかの条件があるのだそうで、その一つは方角。南、または東向きにし、北、または西向きにはしないのだという。もう一つ、神棚の下を人が通り抜けしないところを選ぶこと、だそうだ。もちろん目線より高い所であることは当然である。
神棚
 そんな所は、いっぱいある、とお思いだろう。ところが、この幾つかの条件を満たす所は、あるようで、ないものだ。夏、冬の冷暖房のためのエアコンだって取り付けなければならないし、部屋全体の調和や美観だって考えなければならない。

 当たり前のことだが、神棚に足を向けるわけにはいかない。人は寝る時、北枕はしないから、その足側、つまり、その西、または北、南はダメ。そこに方角の南、または東向きの条件が絡むのだ。こう書いている本人だってこんがらかってしまうのだから、お読みになる方はなおさらだろう。
1



 人によっては、そんな事どっちだっていいだろう、と言われる方もおいでだろうが、いざ自分のこととなると、案外、縁起や風習に拘るもの。結局、幾つかの条件に適った所は、たったの一箇所だけ。それも、大きさを考えないと全体の調和が取れなかった。神棚の拝殿?には天照皇大神宮の分厚いお札。地域の道祖神や氏神様のお札も。女房は何か頂き物をしたりすると、仏壇と共にお供えしている。言葉には表さないが、えらいいものだ。



神棚2



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女房と手紙

 「お父さん、ハワイに手紙、書いてよ」

 「お前が書けばいいじゃないか」

 「だって、私、ヘタだもん…。頼みますよ」


手紙2


 私の従兄弟で、ハワイに住む老夫婦からの度々の手紙を受け取った後、女房とこれまた度々交わす会話だ。従兄弟は93歳。その連れ合いは90歳。ひと頃、私たち夫婦がハワイに行ったり、あちらの夫婦が日本に来たりして交流、その度に世話役となる女房の方が、この老夫婦とは仲がいい。


海



 望郷の念もあるのだろう。近況を伝える手紙や写真、贈り物が度々届くのだ。女房もまた枯露柿を作れば枯露柿を、それに山梨の名物・鮑の煮貝や老夫婦の健康を気遣っては日本の栄養剤を送ってやっている。普段、腰が軽く、フットワークがいい女房は郵便局に行っての贈り物の処理は苦にならないようだが、なぜか手紙となると二の足を踏むのだ。


エアメール   ペン


 人間、不思議なのか、当たり前なのか、女房も80近くになると、威張ったもので、時に、亭主に対して高飛車にモノを言う。ところが、こんな時ばかりは極めて低姿勢。「お父さん、頼みますよ・・・」。



 「バカっ、手紙くらい、お前が書け」


 「でも・・・」



 手紙っちゅうもんはな、自分の思ったことをそのまま書けばいいんだ。うまく書こう、なんて考えるから、億劫になるんだ。継ぎ足し、継ぎ足しでいいんだよ。うまい手紙なんて味もそっぺもないじゃないか。むしろ、まずい手紙の方が味があり、親しみや、温もりがあるんだよ。途中で間違えたら、二本棒で消して、また続ければいいじぁないか…」



 「お父さんはそんなこと言うけれど、そんなに簡単にはいかないわよ」



 こんな時、私は絶対に手を出さないことにしている。いくら言ってもダメ、と悟った女房は自分で書き始めるのだが、そっと見ていると下書きをしているのだ。



 ここでまた「バカっ、下書きなんかするヤツがあるかよ。うまく書こうとしたらダメ、と言っただろう」と言ったら、女房はまた「でも・・・」。


手紙



 女房ばかりではない。私たちは手紙というものを本当に書かなくなった。もう正月から2ヶ月近くも経ってしまったが、年に一度の年賀状も決まりきった印刷文字。年賀状は出すからまだいい。暑中見舞いや寒中見舞いなんか忘れてしまった。あっという間に日本中、世界中を席巻したケイタイのメールというヤツがこれに取って代わった。


ケイタイ2_convert_20110722215531  


 そして文章などとはおよそほど遠い、あの絵文字の氾濫だ。絵文字が使いこなせないアナログおじさんのひがみ、と、お若い方々から叱られるかもしれないが、この絵文字は確実に日本語をダメにし、日本人の文章力を弱めていくと思っている。絵文字ファンの皆さん、ごめんね。毎日ポストに入る郵便物はダイレクトメールと公共料金や税金の請求書くらいのものだ。いまに、本来の郵便屋さんはいらなくなるのかも?




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お葬式の不思議

生花2


 地元紙の山梨日日新聞は、紙面の一角に「おくやみ欄」を設けて、毎朝、県内の物故者と、その葬儀の日取りを伝えてくれる。地域別に整理してくれているから見易いし、第一、便利だ。当たり前だが、結婚式などのようにお祝い事の場合は、招待状が来るから分かる。見方を変えれば、その招待状が来なければ、行けないし、行かない。




 しかし、お葬式は別だ。招待状が来るわけでもないから、何らかのルートで連絡がない限り、お伺いすることが出来ない。だから、このお悔やみ欄は便利で、必ず目を通す。うっかりすると、友人、知人はともかく、そのご家族となると、お悔やみを仕損じかねない。ご不幸を後で知って、改めてお悔やみに参上するハメになるのだ。こんな時はいい訳タラタラである。


お焼香


 病人やお年寄りが最も身体にショックを受けるのは、暑さと寒さ。だから、ご不幸が起き易い時期は夏場であり、冬場である。新聞のお悔やみ欄も、それを顕著に物語っている。この冬はいつになく寒かったり、そうかと言えば、今日のようにバカ陽気で暖かかったり。体の調子が狂う。正直なことに、新聞のお悔やみ欄もやたらと大きい日が…。




 この一年、お葬式にお伺いする回数がいつもより多かったような気がする。特に、夏から秋にかけてだ。昨年の夏が異常に暑かったためだろう。誰もがそうだろうが、私も親戚や友人、知人はもちろん、地域の人達のご不幸には、何をさて置いても焼香にお伺いする。年齢なのだろうか、結婚式など慶事は少なくなる半面、ご不幸の葬儀に行く回数がやたらと多くなった。

葬儀


 山梨の場合、葬儀の弔問は、特別の都合でもない限り、通夜と告別式の両方にお伺いするのが半ば慣例であった。しかし最近は、そのどちらかで弔問するようになった。弔問者は黒の礼服(略式)を着て列を作り、僧侶もお経の中身は違っても、同じようにお経を読む。弔問者の数は、どちらかと言えば通夜の方が多くなった。




 東京や埼玉、神奈川など他都県の葬儀にお伺いしたことがあるが、一般の弔問客のほとんどは通夜。告別式は親族、つまり、お身内の方々中心のようにお見受けした。通夜に、焼香に来る一般の弔問客の服装を見ても、ネクタイだけ変えて、スーツは平服。会社の帰りに弔問するケースが多いという。いかにも都会の合理性が浮き彫りになっているように見えるのだ。




 いつ頃から葬儀当日に行うようになったのか分からないが、いわゆる、ぶっつけ七日と呼ばれる初七日法要の仕方も違う。東京などの方式が親族中心であるのに対して、山梨は多くの一般をも巻き込み、参列者は100人,200人は当たり前。多いケースでは斎場には入りきれないので、ホテルなどで300人を超す規模の法要も。ただ、ここ何年かはコロナ禍の影響を受けて、この≪ぶっつけ七日≫の法要は影を潜めた。


盛り籠


 各地に斎場が出来て、かつての自宅葬は完全に姿を消した。農協、つまりJAも参入して斎場業界は、そのシェア拡大にヒートアップ気味だ。人間、誰しも迎える終末。遺族が受け持つ葬儀の仕方も所変われば…、である。いつかはみんなが行くあの世へのお見送りもさまざまで当たり前か・・・。




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下駄スケート

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 「寒いですねえ…」


 このところ毎日のように行っている温泉の職員は、愛想よく語りかけた。


 「全く寒いですよねえ…。歳のせいですかねえ。今年はやたらと寒いような気がしますよ…」


 「いやいや、お歳のせいじゃあありません。本当に今年は寒いですよ」


 ロビーのカウンター前に置かれた券売機で入浴券を買い、受付の職員に渡しながら、そんな会話を交わした。

温泉風呂湯_convert_20120201134533


 「でも、この寒さ、私らの子供の頃と比べれば、大したことはないんですよね。昔は家にある堀も田んぼも、この時季、みんな凍っちまった。そればかりか地域のため池も富士五湖もみんな全面結氷したもんですよ。湖はおろか、地域の田んぼでもスケートをしたもんですよねえ」



 「みんな、寒い、寒い、と言っているけど、昔と比べれば大したことはないんですよねえ。地球温暖化と言うヤツのせいじゃあないんですかねえ…」



 カウンター越しに話してくれた職員は見るからに50代半ば。この温泉は公営の施設だから職員の年齢は当たらずとも遠からず。69歳を過ぎた私とは少なくともひと回り前後離れた年齢だから、田んぼでのスケートなど知る由もないかもしれない。


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 戦後も間もない昭和20年代だった。無邪気な子供たちは家の近くの田んぼで下駄スケートに興じた。言うまでもなく今のような競技用のスケート靴があるわけがない。子供たちは隣町にある運動具屋さんに行って下駄スケートを買って来るのだ。一口に下駄スケートと言ってしまえば簡単だが、下駄は下駄。子供たちは下駄とスケートのエッジを別々に買って来て、それをドライバーで組み立てるのである。




 ご想像を頂きたい。歯のないポックリのような下駄にスケートのエッジを取り付けただけのものだから、そのままの状態で氷の上を滑れるわけがない。そこは子供とて工夫する。下駄と足をバンドでぐるぐる巻きして固定するのだ。バンドと言えば聞こえがいい。家にあるボロ布で作ったもの。靴のようにしっかりと足に固定しないまでも、なんとか足にフィットした。


高下駄2


 隣町の運動具屋さんと言っても、そことの距離は、7kmぐらいはあった。もちろん車に乗れるわけでもないし、第一、マイカーなどというものがない時代なので、子供たちは歩くか、自転車。その自転車も今のように子供用などないから、「突っ込み」と言って自転車の三角の部分に足を突っ込んではペダルを漕ぐのである。寒いから皹(ひび)や皸(あかぎれ)は当たり前だった。




 そんな経験をした人間が今、昼間から温泉に入り、「寒い、寒い」と言っている。そこに行くまでの格好も、しっかりと保温してくれるダウンの衣類や頭には、そこそこモダンな帽子も。子供の頃を考えれば何でもないはずなのに…。やっぱり寒い。





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子どもたちのお天神講

 「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘れそ」


 ご存知、菅原道真の和歌だ。今年も1月25日、地域の子ども達が私の屋敷の一角にあるお天神さまに天神飾りの奉納にやって来た。


お天神講1


 赤、青、黄色・・・。七夕飾りにも似た大きな笹に色とりどりの短冊が。「勉強が出来るようになりますように」「成績がよくなりますように」「今年一年健康に過ごせますように」。短冊には子どもたちのさまざまな願いが記されている。





 お天神講は、小正月の道祖神祭りと共に、この地域の子ども達の一大行事。お天神さまは、もしかして学業の成績を上げてくれるかもしれないから、子ども達にとっては道祖神よりありがたい存在かもしれない。

お天神講


 このお天神講、今の子供たちはどんな形でやっているのか定かではないが、私たちが子供の頃はある意味で盛大だった。子ども達はお米や野菜を持ち寄り、各戸持ち回りで、今風に言えば食事会を開くのだ。裏方のお母さん達は大きな釜で炊き出しをした。わいわい言いながら食べた、お母さん達が作ってくれた真っ白いご飯、サトイモや大根、人参などの煮っ転がし、熱い味噌汁・・・。うまかった。この歳になっても、その味は忘れられない。


白米


 リーダー役の6年生は自転車で隣町の文房具屋さんに行ってノートや鉛筆、消しゴム、筆箱、下敷き、クレヨンなどを調達して学年別に配る。いわゆるプレゼントである。それも、嬉しかった。その頃の家は、今のような住宅構造と違って田舎風の造りだったから、内部のふすまを取っ払えばいっぺんに大きな部屋になる。子供たちはそこで腹いっぱい食べ、一日をなんとなく遊ぶのである。戦後の貧しい時代だった。






 菅原道真は、生まれたのも、没したのも25日。それも丑年だった。だから、子ども達の天神講もその日を充てているのだろう。モノの本によれば、わずか5歳で和歌を読み、11歳で漢詩を作った。14~5歳の時には「天才」と言われ、後に「文道の太祖、風目の本主」と仰がれた。天神講は、庶民の教育機関として寺子屋が普及した江戸時代、書道の上達や学業の成就を祈願して行われるようになったという。

 その天神講。この地域では子供の数が、どんどん減って、その「講」すら成り立たなくなっているのだ。寂しい限りだ。菅原道真も、きっと嘆いているだろう。


湯島天神


 お宮は、おしなべて皇室を祭ったもの。わが国で平民を祭ったお宮は徳川家康の東照宮(日光と久能山)と菅原道真の天満宮だけ。このうち、東照宮は徳川家が自らの権力でなさしめたものだが、天満宮は、ちょっと違う。庶民の人気とは裏腹に左遷されたり、不遇を受けた道真が亡くなった後、天変、地変が相次いだことから、時の権力・平安京が祭ったものだ。道真の怨霊を恐れたのである。

お天神講3


 お天神講の子ども達にとっては、そんなことはどっちでも良かった。たらふく美味しいご飯を食べ、ノートや消しゴムをもらうことの方が喜びだった。俺達「成績がよくなりますように」なんて短冊、書いたっけ?子ども達が奉納した短冊を見ながら今の子供たちとのレベルと世相の違いをまざまざと感じた。そしてなによりも違うのは子ども達の数・短冊の激減だ。




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プロフィール

やまびこ

Author:やまびこ
 職場を離れた後は«農業もどき»で頑張っています。傍ら、人権擁護委員やロータリー、ユネスコなどの活動も。農業は«もどき»とはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定もします。でも高い所が怖くなりました。
 ブログは、身近に見たもの、感じたものをエッセイ風に綴っています。

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