ニセモノと日本人

 「ニセモノありますよ。案内します。どうぞ、どうぞ」


 南大門市場の人ごみを歩いて行くと、大声で客引きする男に出会う。その男達は、ブランド物のニセモノがあることを盛んに強調するのである。


 南大門でお分かりの通り、そこは韓国・ソウル。ご存知、東京のアメ横をもっと泥臭く、もっと大きくしたような所だ。ジーパンやTーシャツ、靴やサンダル、めがね、果物や魚、豚肉など、何でも売っている。いわば巨大なマーケットだ。昼も夜も一日中露天のような店を開いている。その規模と活力は道行く人たちを圧倒する。マーケットは南大門の目と鼻の先にある。この国にとって、重要な文化財であった南大門は、日本でもありそうなバカな男のために数ヵ月前、焼失の憂き目に遭い、ちょうど復元工事が真っ盛りだった。

南大門衣料店 南大門屋台


 公然とニセモノ売りを案内する男は、路地のビル、というよりはいかがわしい建物の2階3階に連れ込んで、こう言うのである。


 「内緒ですよ。当局がうるさいですからねえ」


 うるさいもへったくれもない。町のど真ん中で、ニセモノ、ニセモノと大声で客引きしていたくせに。ハナからいかがわしい、その店に入ると、ブランドおたくが喜びそうなバックや財布、ベルトなどが壁やテーブルにずらりと並んでいるのである。店には30歳から40歳ぐらいの日本人女性が何人もいた。


 その女性の一人は言った。


 「ニセモノと本物は私には一目で分かりますよ。でも、素人は分かりません。私は買って帰ります。やっぱり本物より安いですもの」


 そのご夫人は、自らが持つ本物と、ニセモノの違いを半ば誇らしげに説明してくれた。ブランド物に全くオンチな私に、その価値や価格の良し悪しが分かるわけがない。そんな人間が言っては失礼かもしれないが、日本人は外国人から確実にバカにされている。どうしてって?ブランド物を買いあさっている日本人を横目に、ニセモノを公然とアピールし、店に呼び込む。ブランド物を買いあさる人達も、このニセモノの店のお客なのである。


 ある自称セレブのご婦人が、こんなことを言ったことがある。


 「ブランド物の高価なものは失くしたり、盗まれたりしたりしてはいけないので、家の箪笥に置き、外に出るときはニセモノを持ったり、付けたりするんです」


 先ごろ言ったハワイやフランスなどでは街の真ん中にあるブランド物の店に入っているのは日本人ばかり。そのブランド物の袋をぶら下げて歩く日本の若者やご婦人達。当然のことながら店員達は日本語がペラペラである。アメリカやフランスではさすがにニセモノを公然とはアピールしなかったが、韓国はひどい。


 韓国ばかりでなく中国や東南アジアの国々でよく出っくわす「1,000円、1,000円」の物売りも日本人の内心を見透かした商法だろう。ブランド物を買いあさり、そのニセモノを買いあさる、日本人とは何とへんてこな国民だろうか。つくづく考えさせられた。

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ピーナッツと落花生

 昭和51年、この年に起きたロッキード事件は米国の航空機メーカーを巻き込んだ、わが国政治史上まれにみる疑獄事件に発展した。時の宰相・田中角栄はこの事件で失脚、間もなく、逮捕されるなど日本の政界は混乱の渦に飲み込まれた。それから30数年、刎頚の友と言われた田中角栄元首相、小佐野賢治元国際興業社主、それに日本の黒幕といわれた児玉誉士夫ら事件の主役達はいずれも鬼籍に入ってしまった。
 

黒いバック


 受託収賄罪。当時としては比較的耳慣れない、この刑法用語がこの事件でポピュラーになった。もう一つ、贈収賄のキーワードとなったのがピーナッツである。つまり、捜査に当たった東京地検が宰相・田中角栄の犯罪として立件を目指したのが受託収賄罪であり、その収賄の現金授受の隠語がピーナッツであった。田中角栄は当時、やはり米国のグラマン社と日本への航空機の売込みを競っていたロッキード社のコーチャン副社長からピーナッツという名の賄賂を受け取り、それに便宜を図ったと言うのである。



 この事件を伝えるテレビ、ラジオの裏番組では、この頃なお国民的な人気を誇っていた双子の姉妹歌手ザ・ピーナッツが茶の間で人気を博していた。双子歌手や双子タレントの草分けであった。もちろん、この二つのピーナッツはまったく関係ないのだが、賄賂の代名詞に対し、こちらは双子の代名詞になったのである。今ではピーナッツという言葉も忘れられたし、ザ・ピーナッツもお茶の間から姿を消して久しい。

ザ・ピーナッツ


 ピーナッツは南京豆ともいい、落花生の実のことを言う。落花生は実に不思議な植物である。お恥ずかしい話だが、私は65の年になるまで落花生の実はその根につくものとばかり思っていた。ところが全く違っていた。文字通り「落花生」で、花が弦のようになって、地に落ち、実を付けるのである。



 私の親しい友人の一人に萩原と言う男がいる。この人は私のパソコンの師匠でもあるのだが、ある時お宅を訪ねたら「いい落花生の種があるんだけど蒔いてみるけ。その生育過程をちょっと注意してみていると感動するよ」と言ってくれたのが、その不思議を知るきっかけであった。この萩原さんは実に勉強家で、創意と工夫に旺盛な人である。



 春先に蒔いた落花生の種は間もなく芽を出し、7月下旬ごろから青い葉っぱを沢山付けた枝に黄色い花を付ける。ここからが感動的なのである。この黄色い花がいつの間にかに弦で垂れ下がり、地中に潜るのである。つまり、落花生の実を沢山収穫するためには沢山のいい花を咲かせることもさることながら、花が落ちる所にしっかりと土を盛ってやらなければならない。最初、そのことを知らない私は根元にばかり土寄せしたものだから、花は弦で垂れ下がったものの、潜るところがなく、空中ブランコ。大失敗で、苦笑いしたものである。



 今の子供達は、もちろんロッキード事件のピーナッツも、双子姉妹のザ・ピーナッツも知らない。そんなことはどうでもいい。だが、この落花生が織り成す感動だけは教えてやりたいと、正直思った。いい歳して、たわいもないと笑われるかも。

旬とコミュニケーション

 「これ、撥ね出し物だけど、美味しいから食べてくれますか」

スモモ

 近所の人が、時にはサクランボ、時には桃、スモモといった具合に、段ボール箱や果物のもぎ箱に入れて持って来てくれる。箱への並べ方は大雑把だ。


 「何時も済みませんね」


 お礼を言うと


 「これ、形が悪かったり、過熟気味になってしまって出荷出来ないんですよ」


 いかにも美味しそうだ。食べてみてもうまい。当たり前である。木で熟れた物を、そのまま持って来てくれたからだ。桃でも、スモモでも同じだが、輸送やセリ、店頭での陳列など消費者の口に入るまでの時間を考慮して、熟れる前のものを出荷するのである。出荷の過程で、すぐ過熟になってしまうトマトなどはその典型で、真ん中の尖った所がちょっと赤くなった段階で出荷してしまう。


 桃やスモモに限らず、旬の果物や野菜をあっちこっちから頂く。こちらも、ナスやキユウリ、ジャガイモ、サトイモ、落花生など家の畑で採れたものをお届けする。果樹農家の中には、こうした野菜を自分で作らない人が多いのである。果樹作りで忙しく、手が回らないから、種類が多く、手間のかかる野菜なんか作っている暇がないというのである。

野菜

 百姓もどきというか百姓見習いの私が作ったものだから、お世辞にも立派なものではないが、無農薬で、採りたての新鮮野菜であることだけは間違いない。


 「お百姓などしたことがない人が、こんなに立派なものをお作りになって。大したもんですねえ」


 お世辞なのかなんだか分からないが、喜ばれるとうれしいものだ。田舎にはいつも、こんなコミュニケーションがあったり、旬というものの実感がある。


 小学校から高校まで、つまり子供の頃を除いてそのほとんどを甲府や東京で過ごした。土のないサラリーマン生活である。ざっと50年近く、野菜や果物はほとんどを買って食べた。子供の頃、実家では桃や葡萄を作っていたので、それを買って食べることにはちょっぴり抵抗があったが、食卓を賄う女房は甲府、つまり非農家の生まれだから、一向に気にしなかった。


 八百屋さんや果物屋さんに行けば、その店頭には一年中何でも並んでいて、季節感なんてものはない。自分ばかりではない。日本人は旬というものを忘れさせられてしまったのではないか。ハウス栽培という名の施設園芸の普及とその技術の高度化によるものである。あらゆる野菜や果物が一年中食べられるのだ。

筍

 竹の子を「筍」とも書く。文字通り旬の野菜である。これだけはハウスで作ってもらいたくないものだ。ともかく、会社勤めをリタイア、土のある生活に戻って、特に自分の家で作った野菜のうまさを実感した。物事にかなり鈍感な女房でさえ「お父さん、やつぱり、買ったものと家で作ったものは味が違うね」と言うのだから間違いないだろう。

草との戦い

雑草

子供は知らぬ間に大きくなる、という言葉と一緒にしたら不謹慎、と叱られるだろうが、草だって同じ。あっという間に大きくなって、百姓どもを手こずらせるのである。草だって、生きなければならないし、子孫だって増やさなければならないから、当たり前といえば当たり前。


それにしてもすごい。20日間のハワイ、アラスカの旅を終えて帰ったら、畑ばかりでなく、家の回りも、どこもかしこも草だらけ。これを予期していなかったわけではなかったが、うんざりである。旅行に出掛ける前、このことを想定して、きれいにしていったのに、草どもは容赦なかった。身の丈と言ったら大げさだが、膝まではある。


草だけならまだいい。草の先っぽには何百だか何千だか分からないほどの種の穂を付けているのである。この種が来年、全部芽を出し、草になると考えたらゾッとする。だから、その草の種をいっぱいはらんだ穂を女房に摘み取るように命じておいて草との戦である。

草かじり

立ち鉋で端からかじり取っていくのだが、敵もさるもの。しっかりと根を張っているから、こちらは汗だく。流れる汗が目に沁み、着ているシャツは汗を搾るほど。一通り採り終わったと思つたらもうその次が。通りかかった近所の人は、慣れない私の姿を見かねたのか「私が除草剤を撒いてあげますよ」と、言ってくれた。確かに今の農家は草なんかにビクともしない。世間では篤農家と言われる専業農家ですらである。むしろ、桃や葡萄、サクランボなどの果樹園に草をはやしたままにし、果樹の保水に役立てるのだという。


百姓の長男でありながら、≪会社人間≫で過ごした40数年。学生時代も含めれば50年近く百姓から離れていた自分が今となってみれば恨めしい。バカではないか、と言われるかも知れないが、除草剤とか草生栽培という言葉がピーンと来ないのである。「草をはやしたら百姓の恥」とまでも言わないまでも、それを良しとしなかつた子供の頃、何とはなしに覚えた百姓の感覚が今でも心の隅に残っているのである。


幸か不幸か、私の家は、かつて大地主で、数町歩の農地があった。ところが会社人間で家や畑のことなど見向きもしない息子に業を煮やしたのか、不安を感じたのか、親父は家屋敷だけ残してそのほとんどを処分してしまったのである。よかった。しかし残った家屋敷はまだ1町歩。なまくらの身体になってしまった私にそれを耕す能力があるはずがない。ピオーネや巨峰が植えてある5反歩ほどのぶどう園は隣村の人に作ってもらっている。


だから私の仕事といえば残された、ただの畑と庭やおつぼきなど、いわゆる家屋敷の管理である。畑ではジャガイモ、サトイモ、サツマイモ、なす、キユウリ、トマト、かぼちゃ、インゲン、果ては生姜、ニンニク、アスパラ、ふき、茗荷に至るまで四季の野菜を何でも作る。人から見れば趣味に毛が生えたようなもので、生産性とは全く程遠い。


仲間たちは借りた農地での家庭菜園作りを楽しそうに話す。しかし私は草ぼうぼうにしていてはみっともないので草っかじりをし、そこに何かを作っているのである。人手が足りないから、子供をも動員、野良で朝飯を食って学校に行った子供の頃を思い出した。

百姓の方便

 草生栽培だとか雑草との共生、という言葉をよく聴くようになつた。農家、または≪農家もどき≫の人たちの間にである。100歩譲って草生栽培はいいにしても、雑草との共生で農作物が出来る訳がない。「雑草のように強い」と人にも例えられる言葉があるように雑草は逞しい。その雑草の中で農作物が育つ訳がないからだ。どんな野菜だってその周りの雑草を取ってやらないと雑草に食われてしまうのである。

芽

 友人に≪自然との共生≫や≪エコ≫をライフワークに考えている男がいる。その考え自体は素晴らしい。しかしよく分からないのは自然との共生が≪正義≫だからジャガイモやかぼちゃ、たまねぎを撒いても、肥料もやらなければ、雑草も取らないのである。ましてや、除草剤なんかもってのほかだ。

ジャガイモ

 その畑を見たことがある。畑は一面草ボウボウ。ジャガイモやかぼちゃはよく見なければ分からないほど雑草の中に見事に埋没していた。今もその方法で野菜作りをしているかどうか分からないが、その畑は山間にあって、周りの畑も草ボウボウ。いわゆる遊休農地である。仲間の畑は農業後継者がいない、その遊休農地の一角をただ同然に借りたのだそうだ。ここなら草ボウボウにしていても近所から苦情も来るわけもないし、とヘンなところで納得したものだ。


 ただ、ここで思ったのは遊びの野菜作りといったら、その友人に叱られるかも知れないが、それと、農業で飯を食っていくということは、まつたく別ということである。≪自然との共生≫≪エコ≫はこの友人の哲学といっていい。その哲学と実践を引っさげて、あっちこっちで講演をしたりもする。その頃、車もごく小さなものに乗り、そのどてっぱらにはエコを訴える大きな文字を書き込んでいた。


 そこまでは良かった。その車のわきで、私と立ち話をしながら、道路わきの畑で実る桃を横目に「この桃だって無農薬で作らなきゃあいけん」と、ぶった。そこをたまたま通りかかった農家の親爺らしき男はカンカン。目をむいて、こう言った。


 「てめえら、何様だと思っているんだ。消毒をしちょだって?桃にゃあ灰星病というやつがすぐ着く。俺たちが消毒をしなかった、,輸送中にみんな駄目になっちまって、消費者の口にゃ入らねえんだ。第一、俺たちゃあ、これで汗水たらし、飯を食ってるんだ。何も知らねえで、勝手なこと言うんじゃねえよ」


 私はもちろん、友人も一言の反論も出来なかった。


 さて草生栽培というやつだ。桃、葡萄、サクランボなど果樹園ではいいが、野菜作りでは成り立たない。果樹園での草生栽培にしても農家の方便のような気がしてならない。果樹栽培はだんだん高度化し、その一方で手間もかかるようになった。草に追われる農家は草退治に手が回らず、いっそのことと、草との共生を考えたのではないか。草生栽培といっても時を見て、草刈をしたり、除草剤を撒いているのである。らちもない事ばかり言うと「百姓もどきが、つまらぬこと、言うんじゃあねえよ」と叱られそうだ。

畑

蔦の爪あと

蔦3

 「蔦の葉絡まるチャペルで・・・」と歌われたり、高校球児のあの暑い夏を連想させる甲子園球場の蔦。いかにもロマンチックであったり、爽やかな青春を思い起こさせる。街を歩いていて鉄筋コンクリートの建物を包み込むような青々した蔦を見ると、いかにもクラッシックな洋館を髣髴とさせ、そこに住む人たちの生活ぶりをのぞいてみたくなるのは私ばかりではないだろう。


 私がこれから言う蔦はそんなロマンチックなものだったり、爽やかなものではない。会社をリタイアして戻った実家のお蔵の白壁は蔦に覆われていた。覆われていた、なんてものではなく、あるものは枯れ、汚らしく二階の屋根まで這い上がり、大きなお蔵は廃墟をも連想しかねないぶざまな姿を露呈していた。

蔦

 ご存知、蔦はタコの吸盤のようなものを持っていて、コンクリートでも、土壁でもどんどん這い上がってしまう。これを取り除くのに始末が悪いのは枯れた蔦である。生きていれば、引っ張ればつるごと取れるのだが、枯れているとポリポリ折れてしまう。腹が立つ。そればかりか、吸盤は小さいから壁に張り付いたままで、取れないのである。枯れた蔦も高い所は梯子を架けて取り除いたが、点々と壁一面に残る吸盤は今も残ったまま。長い間、お蔵にとどまらず、ほったらかしにしていた付けであり、証明である。


 蔦というヤツは畑であれ、空き地であれ、絶対に真ん中には生えないのだそうだ。しかも綺麗にしているところには顔を出さない。つまり、建物や石垣の近くで、這い上がれる所があることが条件だ。蔦の葉か絡まるチャペルや甲子園の蔦は少なくとも人為的に作ったものだが、みんな垂直に這い上がっているのは共通である。いったん始末して、綺麗にしておけばもう顔を出さない。いって見れば、蔦という植物は人や自然の弱みに付け込んで生きる嫌なヤツなのである。

蔦2

 「放って置けば必ず森になる」秩父多摩海国立公園の山梨県側の一角に乙女高原がある。そこはかつてスキー場だった所。春から秋、色とりどりの野草が花を咲かせ、今では野草の宝庫とまで言われるようになった。その草原を守ろうと、山梨市のある小学校教諭の呼びかけで、ファンクラブが出来た。毎年1123日に山梨県内外のファンボランティアが集まって下草刈をし、翌年5月にはロープの遊歩道作りをする。


 この下草刈をしないと、あっちこっちに生えるブッシュが、やがて森になつてしまうのだそうだ。各地のスキー場がシーズンオフ、野草が咲き乱れる草原として人気を集めるのは、雪の上にブッシュが顔を出さないように秋の下草刈を欠かさないからである。


 蔦ばかりではない。我が家の周りの道の石垣には、かつては小さな芽に過ぎなかった木の芽が長く放って置いたツケなのか大きなブッシュとなって、あっちこっちで道をふさいでいた。この道は6尺ほどの幅を持つ古道。車社会になって忘れ去られようとしている道だが、朝夕犬を連れて散歩する人は結構いる。道をふさいだブッシュと雑草。こんな所でも人に迷惑をかけていたかと思うと「これからは・・」と肝に銘じざるを得なかった。

サクランボとなまくら息子

サクランボ1

 サクランボといえば山梨県の人たちは南アルプス市の白根をイメージする。しかし、今では白根に勝るとも劣らないのが山梨市の旧岩手地区だと思う。私が住む村だからという贔屓目ではない。東南に面した山付きを中心にサクランボ畑が広がり、そのスケールはけして小さくない。路地ものばかりではなく、シーズンには一面ビニールハウスで埋まる。その立地とおそらく地味の良さも手伝って味もいいのだそうで、人気は年々高まり、
4月から5月にかけての最盛期には首都圏からの観光バスがどっと繰り込む。

サクランボ2

 その姿を横目にちょっぴり複雑な思いに駆られることがある。全体では一部分でしかないが、一等地のような1~2町歩の土地がかつては我が家の畑だったからだ。あの土地が俺のものだったら、とつい助平根性が頭をもたげる一方で、あの土地が今も残っていたら、と思うと、ゾッとするのである。助平根性などとんでもない。なまくらになってしまっている俺に耕作出来るわけがないからである。


 子供の頃を思い出した。この地方ばかりではないが、山梨県は米麦、養蚕が農業の主体を成していた。平地は水田、それも二毛作の米と麦、山付きは桑を作って、養蚕をしたり、とうもろこしや薩摩芋も作った。この地方では大きな農家だったから、中学生の頃の農繁休暇には、10人前後の仲間や上級生が宿泊研修という名のお手伝いに来るのである。自分ばかりでなく、みんな懐かしい思い出であったに違いない。60も半ばを過ぎた男たちが今もその思い出話をするのである。


 私が大学に入った頃、つまり昭和30年代の半ばごろから、この地方は桃、葡萄を中心とした果樹への転換が始まり、あっという間に米麦、養蚕の農業スタイルは姿を消した。我が家も水田から桃や葡萄などの果樹園に転換したことは言うまでもない。農家の長男でありながら大学を卒業した後、家に帰らず、いわゆる会社人間の歩みを始めてしまったのである。

葡萄 桃

 広い農地を抱え、家業を見向きもしないせがれに親爺は頭を抱えたに違いない。我が家の農地の大部分を処分せざるを得なかつた親爺の心中が、ちょうど親爺の年になる今の私には分かりすぎるほど分かる。その処分の仕方も、やけくそなのか、一生懸命手伝ってくれた御礼なのか、近所の人に、いわば只同然で分けてしまったのである。


 俺がもし親爺の立場だったらと考えると、親爺のような大胆なやり方はできないだろう。もう大分前になるが、今は南アルプス市となった旧白根町の知り合いがこんなことを話してくれたことがある。


 「うちの畑を道路でも何でもいいから走ってくれないものかとつくづく思う。親から譲り受けた畑を売っぱらうのはちょっと気が惹けるが、公共用地としてなら大義名分がある。息子は大学を出て、会社勤め。百姓なんかやる気はねえんだ」


 なにか自分と親父のことを言われているような気分になったものだ。百姓の長男とはそんなもの。しかし、その百姓をめぐる環境や価値は何十年かのサイクルで変わるのである。

看板はなくてもいい?

 ハワイでも、シアトル、アラスカ、そしてカナダのビクトリアでも、なぜか街がスッキリしているように見えた。あっ、そうか。看板だ。商店にも、歯科医などのお医者さんにもケバケバシシイ看板がない。これとは対照的なのが中国や韓国である。カラフルと言えば聞こえがいいが、いかにもドギツイ。皮肉なことに、この看板のドギツサが中国や韓国のイメージにすらなっている。


 行く先々、ハワイやシアトルにも中国人街や韓国人街があった。やはり看板がドギツイ。もちろん国が違うから文字が違うのは当然だが、共通しているのは色だ。などの原色を使っている。看板の目的からすれば当たり前の色手法だ。しかし周囲との調和とか落ち着きと言う観点から見れば確かに疑問が多い。

中華街1

 ロス・アンジェルスのハリウッドに近いところにある ビバリーヒルズ に行ったことがある。ハリウッドなどの有名人が多く住む高級住宅街だ。この街には看板がなかった。町の政策で看板の設置を抑制しているのだそうだ。景観を保全するためである。そのためか街全体に落ち着きがあって、それが気品のようなものまで醸し出しているから不思議だ。アメリカでは景観保全が進んでいる。その入り口がこの看板かもしれない。

アメリカ景色住宅


 ホノルルに住む従兄弟夫婦が歯科医を営む息子のところへ連れて行ってくれた。その≪歯科医院≫はハワイ州庁などがある官庁街の一角にあるビルの一室にあった。20階建てぐらいの、普通のオフイスビルである。○○歯科といった日本にあるような看板もなければ、もちろんネオンもない。エレベーターで13階に昇ると、廊下の両側に何の変哲もない部屋が並んでいる。言ってみればみんなホテルの部屋のようだから、ドアにあっさり書いてあるネームを見なければ何の部屋かは分からない。



 「患者にとって不便だって?そんなことはないさ。日本のよぅに大きな看板がなくたって、十分にここに来られるんだよ。電話帳もあれば、住所や電話番号がある広告が載ったフリーペーパーもある。ここでは通りがかりで来る患者ではなく、ほとんどが予約制。歯医者ばかりでなく、患者側はみんなホームドクターを持っているんだよ」



 従兄弟は私の疑問になんでもないように答えてくれた。確かにハワイではこのフリーペーパーがかなりの数で発行されていて、スーパーなどには必ず置いてある。もちろんフリーペーパーは有料ではないから、発行者にとって広告は唯一の収入源。生鮮食料品から衣料品、自動車などあらゆる業種の広告を載せている。その歯医者の広告も載っていた。



 消費者は買い物帰りにこのフリーペーパーを店頭から自由に持ち帰り、ニュースを読み、広告を見るのである。フリーペーパーが進んでいるこの国では有料の新聞などとらなくても済むのかも知れない。フリーペーパーはみんなタブロイド版。中身も気軽に読めるよぅに工夫されている。日本の日刊ゲンダイもあった。


 確かにドギツイ看板は街の景観を壊す。スッキリした街並みは街往く人たちの心を落ち着かせる。日本は街の景観保全後進国かもしれない。米国に学ぶところは多い。

人種の坩堝アラモアナの街

 アラモアナといえば、日本人にもおなじみのショッピングセンターである。とにかくでっかい。世界のブランド品の店もいっぱい並んでいて、ショッピングセンターというより、大きなショッピング街だ。その規模はひところ全米一だったというが、米本土のどこかの州に出来たショッピングセンターに追い越されたのだそうだ。

           ★アラモアナショッピングセンター★

 これも従兄弟夫婦に案内されていってみた。行ってみたと言うより、女房たち女たちのエスコートといったほうがいい。女房はともかく、83歳になる従兄弟の夫人も買い物といえば目を輝かせて、嬉々として飛び回る。私はそんな女たちのお供は真っ平ごめん。「俺も同じだよ」という従兄弟と街路のベンチで待つことにした。

服1 カバン 長袖

 何を考えるともなくボーっと待つこの時間、これがまた面白い。途切れなく行きかう人、人、人。ハワイの現地人やアメリカ人はもちろん、イタリア人、フランス人、ロシア人、それに日本人、その日本人と区別がつきにくい中国や韓国人。ちょっと色が黒いベトナムやタイ人、アメリカかアフリカかは分からないがもっと黒い人たちも。まさに世界中の人たちが目の前を行きかうのである。


 世界の観光地であり、リゾート地ならではの光景である。「あれはイギリス人?あれはロシア人?」といった具合に追ってみるのだが、お隣の中国人、韓国人の区別すら分からない。まして、アメリカ人とイギリス人、イタリア人の区別なんか正直言って分かりっこない。スペイン人やポルトガル人、オランダ人も歩いているのだろう。話す言葉を聴いて、ああ、やっぱり日本人だと思うくらいである。みんな思い思いにショッピングを楽しんでいるのである。


ハイビスカス


 二階だっただろうか、街路のちょっと広まったところに日本人向けの案内所が設けられていた。そのつくりは街路と調和するスタンド式で、埼玉県の出身だという愛嬌のある女性が座っていた。その女性によれば、最近日本人観光客の数は目立って減っているのだそうだ。そういえば、数年前のようにブランド品の買い物袋をぶら下げてかっ歩すように歩く日本の若い女性の姿が、心なしか少ないように思えた。


 ボーっとしているだけでもお腹は減るものだ。5時の開店を待って4階にある寿司屋に行った。店のスペースは広く、4人がけのテーブルが20以上もある食べ放題の店であった。次から次と握られる寿司が並び、好きなものを自由に食べられる仕組みだ。いなり寿司もある。メロンやオレンジなどの果物、タラバガニの足もどっさり置いてある。手巻き寿司おすし(赤身)かっぱ巻き


 店員が空いた皿を機敏に片付けに来たり、醤油の継ぎ足しにも気を配る。上手な日本語で話しかけるので「日本人?」と問いかけたら「私は台湾人です」と答えたその男は日本人顔負けの気配りをしながら店内を飛び回っていた。店長らしい年配の男は頭を低く、丁重にお客を迎えていた。


 寿司の味もそこそこである。さすが日系人が3分の1近くを占め、日本人観光客が多いハワイだ。私たちが最初の客だったが、帰る頃には客席はほとんど埋まっていた。

日本人の寿司屋さん

「へぇい いらっしゃい」

 アラスカクルーズの豪華客船のレストラン・寿司バーでへんてこな寿司を食わされた私を気遣ったのか従兄弟夫婦はハワイに戻ってホノルルの官庁街に近い所にある日本人の寿司屋に連れて行ってくれた。この寿司屋は「歌舞伎」という屋号でもう20数年この地で営業しているのだそうだ。以前にも連れて行ってもらったことがある。


 大将はもちろん日本人。新潟県の出身だという。ふけて見えるが私より5つも若い60歳だ。


 「久しぶりですね。お元気でしたか」


 私の顔を見て大将はニコニコしながら愛想よく話しかけてきた。店のつくりは10人ほど座れるカウンター席と、その手前に10人ぐらいのテーブル席が並び、そのおくにはやはり10人ぐらい座れる座敷が設けてあった。通りすがりに見るとテーブル席にも座敷にもそこそこのお客が入っていた。


 カウンター席にはマグロやアナゴ、海老、烏賊、ハマチ、ウニ、イクラ、日本の寿司屋にけして負けないようなネタが並んでいた。シャリはカリフォリニア米を使っていたが、小粒で、けしてまずくない。奥まったちょっと高いところには神棚、正面には大きな招き猫が置いてあった。棚には日本酒や焼酎も。ビールは日本のキリンを用意してくれていた。

寿司


 「やっぱり、寿司屋はこれだ」


 店のつくりや雰囲気を見る限りハワイにいることを忘れるくらいである。テーブル席と座敷にはいかにも日系人らしい家族連れと白人が桶に盛られた寿司を美味しそうにほうばっていた。まだ時間がちょっと早いのか、カウンター席にはお客はなく、大将との話は、はずんだ。


 その大将はアメリカンフットボールの大フアンだそうで、それに輪をかけたように大好きな従兄弟とよく話が合う。この大将と親子ほども歳が違うせいか、従兄弟夫婦はいつも「ヨシオ、ヨシオ」と名前を呼び捨てで呼んでいる。従兄弟夫婦も、その子供たちも寿司が大好きだそうで、週に一度か二度必ず来るのだそうだ。


 隣の席に夫婦らしい年配の白人が座った。


 「ヘロー」。そのヨシオはそれまでの新潟弁交じりの日本語から一転、英語で迎え、英語で話しかける。注文のマグロも「ツナ」に変わるのである。そうなると店の雰囲気はガラリと変わり、なにかへんてこな気分になる。寿司は「スシ」だがネタはすべて英語である。


 寿司は日本の料理。だから、ネタの呼び名だって、日本語で言えばいいのに、と思った。そんな私の目を見ながら大将は「これ、しょうがねえんだよねえ。おれたちゃあ英語と日本語を使い分けなきゃならんのですよ」という。お客は普段、白人が多いから、言葉も英語のほうが多いのだそうだ。アメリカばかりでなく、あっちこっちの国で寿司が健康食として人気を集めているそうだが、その食べ方でも≪日本を主張≫できないでいる。

へんてこな寿司屋さん

 8日間のアラスカクルーズで日本人には一人も出会わなかつた。ハワイからツアーできた日系人はいたが、純然たる日本人は私たちだけ。その日系人たちも日本語はほとんど駄目。いつもこの船には日本人が少ないのか、日本人向けのサービスはゼロに等しい。

イラスト寿司


 しかし、ちょっぴりカルチャーショックに陥りそうな私たち日本人にとって嬉しくなったのは寿司や鉄板焼きのレストランがあったことだ。のぞいて見るといつも白人達でそこそこ賑わっていた。鮨バーと大きく書かれてあって、中にはカウンターもある。鮪、烏賊、海老などそこそこのネタが並んでいるが、へんてこな巻き寿司が妙に気になった。海苔を使わず、キユウリなどちょっとした具を中心に渦巻状に巻く ぐるぐる のである。


 へんてこといえば、このレストランはへんてこだらけ。まず、外観から気に入らない。店内の装飾は唐草模様。鮨を握っている親爺、というより息子といったほうがいいかもしれないが、その男は色がちょっと黒い。おそらくタイかマレーシア人である。のっけから寿司屋に行った気分にはならない。白人の男女達が、箸を使って、ワイングラスを傾けながら赤ワインへんてこな巻き寿司を食べているのである。

へんてこ寿司屋


 食べてみたら、もっとへんてこ。シャリは細長いカリフォルニア米。百歩譲ってカリフォルニア米はいいにしてもシャリの味が全く駄目。シャリに酢を打っていないのである。「これが鮨か」、口には出さないが、腹が立った。それでも白人のお客たちはそこそこ美味しそうに食べているからなおさら腹が立つ。


 まだある。この鮨バーの入り口の壁には鮮やかな朱色で蛇の目傘が描いてあるのだが、その傘に書かれている文字がなんともへんてこである。漢字なのかなんだか分からない。ここばかりでなく船のデッキの壁面に書かれた蛇の目傘も同じだった。


 よく考えてみれば、このようなへんてこな場面は多々ある。たとえば、映画を見ていても日本人を描きながら、着ているものがチャイナ服のようなものであったり、部屋の家具がいかにも中国風であったりするケースによく出会う。欧米人は日本と中国、韓国など東南アジアの国国の区別がよく分からないのである。小梅ちゃん 中国 韓国 


 「経済大国日本」、なんて言われているらしいから日本は世界によく知られると思っていたら大間違いということがよく分かる。日本の文化が私たちの意に反して以外に知られていないということである。国際化はどんどん進み、情報テクノロジーは急速に進化しているのに、その溝はまだまだ埋まっていない。へんてこりんな鮨バーだって、そのオーナーなり、担当者がちょっと勉強すればすぐ理解できるのに、と思うのだが・・。


 待てよ。その逆の場合はどうだ。私たちがアメリカやフランス、ドイツ、その文化を十分に理解しているだろうか。残念ながら、はなはだ疑問である。≪知っているつもり≫ だが、案外知らないことがいっぱいではないだろうか。
 同じ言葉を使うアメリカ人とイギリス人はおろかアメリカ人とフランス人の生活習慣や文化が分かるだろうかと考えたら、私はノーだ。人の事を言えた柄ではなかった。

胃袋の違い

 よくあんなに食べれるもんだ。日本人が食べる3倍、とはいかないまでも倍以上、平気で食べてケロッとしているのである。



 ハワイ滞在中、従兄弟夫婦はランチやデナーに街の大衆レストランへ連れて行ってくれた。そこでいつも目にする白人たちの食べっぷりである。例えば、ランチ。お皿の上には幾重にも重なったハンバーガーとポテトチップス。そのポテトチップスの量も半端ではない。日本ではあんきに3人分である。


ハンバーガー


 それに飲み物もだ。セルフサービスのカウンターの端にコーラや日本では見慣れない飲み物のセルフコーナーがあって、思い思いに持ってくるのだが、その紙コップの大きさもどでかい。ハワイではコカよりペプシが強いのか、ペプシコーラコーラばっかり。他の飲み物も同じように甘い。ハンバーグをパクパク食べながら、その甘い飲み物をがぶがぶ飲み、またお変わりを持ちに行く。



 その食べっぷりにビックリしたのは私ばかりではなかった。隣に座っていた女房は日本語が相手に分からないことをいいことに「この人たち、よくあんなに食べれるわね。だからみんなあんなにデブになっちゃうんだよね」。日本ではけして人のことを「デブ」などといえた柄の体形ではない女房がまるで人ごとのように言う。アメリカを旅している間中≪デブ≫の女房が確かにスマートに見えたから不思議だ。そんな女房はこれまた人ごと、「お父さんもスマートに見えるわねえ」と、ニヤニヤしながら言った。


特に白人女性のデブっぷりは私たちの目からすれば桁外れにすごい。そもそも身長があるから若いときにはスマートで綺麗だ。しかし、ある年齢になるとぶくぶく太り出す。自分だってデブの女房が「夜寝るときベットが壊れないかしら」と、心配するほど。余計なお世話というものだが、その私もあっちこっちで出会うそのデブたちにあっ気に取られる、というより圧倒されたものだ。



 女たちほど気にならないが、男たちも同じだ。とにかくよく食べる体もでっかい。日本人とアメリカ人の胃袋の違いだろうか。5,6年前、ロス・アンジェルスに行った時も同じような光景に出っくわしたことを思い出した。そして、そこから空路ラスベカスに飛んだ飛行機の窓から延々と続く台地を見下ろしながら「こんな国のやつらと戦争をしたら勝てっこない」と、直感的に思ったものだ。食いっぷりも、第一、国土のスケールも違う。



 ラスベカスはかつては緑一つない砂漠だった。そこにアメリカ人は≪ラスベカス≫という世界的といっていい歓楽街を造ってしまった。人が住む上でもっとも大事なのは水である。当然のことながら砂漠には水がない。100㌔も150㌔も先から水を引いたのである。その水で、街路樹などの緑も育てた。



 アメリカ人の開拓精神は逞しい。あの広大な国土に人口は3億前後。そのアメリカが世界の超大国たらしめている根底は、このフロンテア精神、その源は大きな胃袋かもしれない。そんなことまで考えさせられるアメリカ人の食いっぷりであった。


アメリカ星

やっぱり日本がいい

 「おとうさん、やっぱりこれがいいね」
 
ハワイ、アラスカの旅を終えて帰国、家に帰った翌朝、約20日ぶりの我が家の飯を食べているとき、女房はニヤニヤしながら、それでいてしみじみと言った。
 
食卓に並んでいたのは、炊き立ての ご飯味噌汁うちの畑で取れたナスとキュウリのぬかみその 漬物それに 焼き魚うまい。やっぱり、これがいい。正直、私もそう思った。

ご飯味噌汁
 
ハワイからシアトル、そこから船に乗ってアラスカ、途中、カナダのビクトリアに寄って、シアトルに戻り、再びハワイへ。日数ではハワイが前後8日、シアトルがやはり前後2日、ビクトリアを含むアラスカクルーズが8日間。そのほとんど毎日がパンやチーズ、ステーキやローストビーフ、チキンなどの肉類、それにロブスターなどの海鮮料理。そしてフォークとナイフの生活である。

ロブスター

 
クルージング中のディナーはいつも豪華版。前菜からスープ、メーンデッシュ、デザートまで一流レストラン並みのメニューを用意、オーダーに応じてくれる。純白のクロースがかけられたテーブルの中央には、いかにも高級らしいワインやシャンパン。これだけは、というより、飲み物はすべてオプション料金である。めいめい渡してくれるメニュー表は、もちろん、みんな横文字。レデーファーストの国だから女性からオーダーを取る。

食4点
 
女房は開き直ったのか、メニュー表を片手に「これとこれ」といった調子で、指でオーダー。そこまでは良かったが、メーンデッシュを二つも三つも。冷や汗ものである。二日目、三日目となると、ちょっぴりメニュー表の見方にも慣れて、部分的に分かる横文字から料理をイメージして、オーダーするのである。それまでが一苦労。でも料理が来てしまえばこっちのもの。食べるときだけは自信たっぷりである。  
 
こんな気苦労をしなくてすむのが、日本で言うバイキング方式のレストラン。所狭しと並べられている単品の料理や果物、それにジュースやミルクを好きなだけ持ってくればいいのだから簡単だ。気が楽になったのか、それとも欲なのか、食べる、食べる。いつもお皿一杯に持って来ては平らげるのである。「腹も身のうち」と笑ってみたが、そう言う自分にも、その≪欲≫があるのに気づいて内心、苦笑いしたりもした。


とにかく、その食べっぷりも3,4日経つとダウン。「お父さん、インスタントラーメン カップめんでも持ってくれば良かったね」と、もう沢山、といわんばかりにニヤニヤしながら言った。「そのとおり。俺もうんざりだ」と、思ったが「あんなに嬉々として食べまくっていたじぁないか」と、からかってやったら「もういいよ」と、うんざり顔だった。



 今年の春頃だっただろうか、ご主人と8日間のフランス旅行に行ってきたという隣の奥さんが土産をくれながら「山田さんねえ、私ゃ、うちに帰った翌朝、手抜きで菜っ葉の味噌汁を作って食べたら、そのおいしこと。こんなうまいものが我が家にあったのかと思いましたよ」と、話してくれたのを思い出した。事実、私も、成田からの帰り道、石川のパーキングエリアで食べた 立ち食いそば が一番うまかったこと。やっぱり日本人だよねえ。

蕎麦

欲望と不夜城のカジノ

 ラスベガス夜景

全体が煌びやかなネオンで埋まり、夜を知らない、いわゆる不夜城の街と言ったらラスベカス。この街のもうひとつの顔はカジノ、つまりギャンブルだ。5、6年前ロス・アンジェルスを経て、このラスベカスに行った事がある。宿泊したのはホテルベネチアンだった。宿泊というよりはカジノにどっぷり浸かったと言う方がいいかもしれない。

     ★ベネチアン

ベネチアン


 ベネチアンはホテルというより、それ自体が一つの大きな街といった感じで、そのスケールに圧倒された。ホテルの中にショッピングロードやくつろぎ、散策の広場があり、ホテルやカジノがあるといった感じである。ビルのなかの街が昼間ばかりでなく、夕暮れや朝まで演出する。また一つカジノを例にとっても、そのスペースはとんでもなく広い。ゲームの途中トイレに立ったら、その帰り、自分のテーブルを見失ったくらいだ。


 ラスベカスはカジノのメッカ。しかし、その規模ではマカオがラスベカスをしのいだとも言う。マカオのカジノには30年ぐらい前、会社の同僚と行った事があるが、もう街全体ががらりと変わっているのだろう。私は自分が根っからの勝負事好きではないかと思うことがある。ちょっと誘われればソウルぐらいならいつでも飛んでいってしまう。今月の終わりに、中学時代の同級生と、またソウルのカジノに行くことになっている。


 今度のハワイ、アラスカの旅でもラスベカスに足を伸ばす予定だった。それを取りやめたのは今回のアラスカクルーズで存分にカジノを楽しめたからである。クルージングの大型客船は6階に大きなスペースを割いてカジノを設けていた。バカラやブラックジャック、ポーカー、レット・イット・ライドなどのカードゲーム、それにクラップスやビンゴ、ルーレットやスロットルマシーンなど何でも楽しめる。


 カジノの雰囲気とは不思議で、そのすべてをやってみたくなる。だが、残念なことにルール、つまり遊び方を熟知していないので、いつも比較的気軽に出来るブラックジャックのテーブルに着く。カードゲームのテーブルはみんなランク別、つまり10ドル以上、50ドル以上、100ドル以上といった具合に分けてある。10ドル~500ドルのテーブルが私の遊び場である。ランクでは一番低いテーブルだ。

お金


 テーブルはいずれも6,7人掛け。100ドル紙幣5枚をテーブルに出すとデーラーはまず紙幣をテーブルの上に並べて客の見ている前できちっと確認した後、それに見合ったチップを客の手元に出してくれる。カードの配り方を含めて、その手さばきは鮮やかだ。賭けるチップの量はリミットの範囲内であれば自由。客はカードの流れを見ながらチップの量、つまり賭ける金額を加減するのである。ブラックジャックは日本のオイチョカブとやり方は同じ。ただカードと花札の違い、それに上限の勝負数字が21と9の違いである。オイチョカブを知っていれば遊べるゲームだ。


 オイチョカブも同じだが、デーラー(親)が強いに決まっている。お客のほうは勝負勘とツキ以外のなにものでもない。結局は負けてしまうのだが、≪好き≫と≪欲が≫後を追わせる。いつも女房が嫌がるのも無理はない。でもギャンブルとはそんなものだ。

ドル山積み

クルージングの魅力と出稼ぎ

自衛隊1

 ハワイ諸島めぐりのクルージングがきっかけで、船に乗るのが癖になったのか、昨年は海上自衛隊の体験航海に応募、横須賀や清水に飛んで、護衛艦に乗った。水平線に向かってすべるように進む船での航行はいかにもダイナミックで、気持ちがいい。体験航海だから操舵室や船橋(ブリッジ)にも入れてくれる。「面舵いっぱーい」。海上らしいスマートな白の制服に身を包んだ自衛官が双眼鏡をのぞきながら前方を確認し、操舵室に運行指示を出している。肩と胸には階級章がついていて、それぞれの立場が一目で分かるようになっている。

自衛隊2

 面舵とは右旋回、これに対して取り舵は左旋回のことを言う。「いっぱーい」は30度のことをいうのだそうだ。つまり、船は左右30度の旋回が限度ということか。護衛艦は昔の駆逐艦。自衛隊は「駆逐」という言葉を避けているのだろうか。戦艦も客船も多くはタグボートを使って接岸したり、離岸する。しかし最近ではこのタグボートを使わすにすむ機能を備えた船が増えているのだそうだ。


自衛隊3

 護衛艦と客船は目的が異なるから、もちろん見た目も中身も違う。性能は別にして、双方ともレーダーを積載、船橋や操舵室もほぼ同じだろう。当然のことながら根本的に違うのはミサイルなどの搭載。外観の色も違う。客船が極めてカラフルなのに対して護衛艦は相手の視界から見えにくいメタリック色だ。呼称は異なるが、客船でもキャプテン(艦長)以下、幹部は肩、または胸に階級章を付けていて、担当別のクルーの指揮を執っている。

自衛隊5

 例えばレストラン。クルーは幾つかのレストランを日替わりで担当しているようで、あっちこっちで同じ顔ぶれに出っくわして顔馴染みになったりもした。そのクルーばかりでなく、全艦の乗務員に言えることだが、白人より東南アジア人が多いように見えた。主にタイ、マレーシア、フィリピン人のようで、中には黒人もいた。


 日本で言うバイキング方式の大衆レストランはともかく、テーブルに高級ワインやシャンペンを並べ、個々にメニューを渡し、前菜からメーンデッシュ、デザートまでオーダーを取るレストランで、もたもたする私たちに「ジャパニーズ?」と声をかけてきた。「イエス」とこたえると「おげんきですか?」「こんにちは」と、愛想よく片言の日本語で返してくる。グアムの出身だというその男はそのクルーのチーフで、数年前、東京のホテルで接客の研修を受けたという。「研修ではなく、一度は日本に行きたい」とも。


 東南アジア系のクルーといえば、ハワイの行き帰りの飛行機の中でも同じような現象を見た。日航機だったが、かつてはスチュワーデスといった客室乗務員のほとんどがタイ人だった。この人たちをリードする日本人のアテンダントに内緒で聞いてみたら、日航では10年ぐらい前からタイ人女性を採用しているのだそうで、さらにフリピン女性の採用を検討しているという。東南アジア系の採用は何れも人件費削減策に他ならない。ことの良し悪しは別に日本を除く東南アジア人の≪出稼ぎ≫範囲はあっちこっちに広がっている。そのみんなが、それぞれ夢を持って頑張っているのである。

海

自衛隊4

クルージングの魅力


船全体


 凝っているといったら、ちょっと大げさだが、今、クルージングにはまっている。
2年前のハワイ諸島めぐりに次いで、今度はアラスカクルージングを女房と一緒に楽しんだ。いずれも8日間の旅だが、きっかけといえば、ハワイに住む従兄弟の提案である。豪華客船の旅ということもさることながら、毎度、ホテルを変えずに旅行を楽しむことが出来るのがいい。

【NCL】←クルージングの会社

船だけ


 陸の旅だとバスや汽車で移動し、その行く先々でホテルを変え、あの重いトランクを持ち運ばなければならない。それに比べ船の旅だと、そのわずらわしさがない。しかもお客が眠っている夜の時間に目的地まで移動してくれる。決まった船室が旅の期間中のホテルであり、行動拠点である。面倒がり屋にはこんな好都合はない。



 船は2万トン以上もある。収容人員は乗客数2,500人。それに1,000人の乗務員が乗り組んでいるのだそうだ。14階建ての船には3箇所のエレベーターホールがあって、それぞれ6基のエレベーターが稼動している。船の全長は300メートル近い。いってみれば、どでかいホテルが海に浮かび、太平洋を動いていると考えればいい。その大きさゆえか、少しもゆれないから快適だ。船酔いなどの心配は全くない。

氷山のような景色


 船の中には大小13のレストランをはじめ、1,500から1,600人収容できるシアターやボーリング場、大人も子供も一緒に楽しめるゲームコーナー、インターネットルームや静かに本を楽しめる読書室、子供専用の遊戯室や大人の遊技場・カジノもある。普通のホテルではロビーに当たる部分は7階にあって、8階まで吹き抜けになっているこの空間には、大小の豪華なソファーがアトランダムに並び、お客同士の待ち合わせや団欒の場となる。

船の景色


 また様々な問い合わせに応ずる案内カウンターやドリンクコーナー、それに大型のスクリーンを見たり、歌や楽器のライブを楽しめるようゆったりした空間を演出している。夜のひと時ともなると、臨時の写真スタジオがお目見えして、気軽に記念写真を撮ってくれる。若者たちのグループや老若を問わず、カップルたちがお気に入りのコスチュームに着替えてやってくる。どの顔もみんな楽しそうだ。

ショー


 このロビーがある7階は主にシアターや読書室などの娯楽施設、それに大衆レストランなどがある。長い通路の両側にはバックや香水、時計、めがね、ネクタイ、男性、女性用の衣類など各種のブランド店やお土産品店が並んでいる。その通路の一角では、臨時のスタジオばかりではなく、レストランやロビーなどでプロのカメラマンが撮ったお客さんの写真が翌日には展示される。沢山のアングルの中からお気に入りの写真だけをチョイスで切る仕組みだ。



 屋上には大小のプールがあって、家族連れや若者たちが水しぶきを上げている。アラスカに近くになったり、ちょっと気温が下がる日には温水に代わる。プールサイドには沢山のビーチチェアが置かれ、人々はサングラスをして日光浴を楽しんだり、透けるような青空の下で読書を楽しんでいた。ドリンクコーナーもある。

プールサイド



日本人米軍属の母国進駐

浜辺

 海面はいつも波静かだった。遠くからだったかもしれないが戦艦の姿は一艘も見えず、どこにでもありそうな平凡なクリークでしかない。旅行中、その真珠湾を見下ろす高台の住宅街に滞在中、直感的に頭をよぎったのはあの日本軍の奇襲作戦だ。真珠湾は日米開戦、そして第2次世界大戦の口火を切った舞台である。1941年、昭和16年12月8日の出来事である。私が生まれる1年前のことだ。この事実を知らない日本人も、またアメリカ人もいないだろう。日本とか、アメリカではなく、世界中の衝撃だったはずだ。


「当時、僕は19歳。まだ兵役していなかつた。その日は日曜日の朝だった。真上を何機もの飛行機が飛んだ。一瞬はなんだか分からなかった」


ハワイ滞在中いろいろ面倒を見てくれた従兄弟は私と20歳違いの85歳。れっきとした日本人だが、ハワイ生まれで国籍はアメリカ。2歳違いの日本女性と結婚、今は、もちろん成人した1男1女と、孫4人が近くに住んでいる。夫人はかつて松竹映画の女優として活躍した人。83歳とは思えないほど若く、美しい。とんちも効いた秀才型の女性だ。結婚式の写真には小林桂樹や今は亡き船越英二らの若き日の姿があった。


銀髪に染まった頭に手をやりながら従兄弟は複雑な思いの戦争について話してくれた。


「戦後、マニラやシナを経て日本に進駐した。軍属、もちろんアメリカ軍だ。横浜で船を降り、東京に向かった。見渡す限り、一面の焼け野原だった。真っ先に探したのは、上野桜木町の実家。戦争前、日本に帰っていた親爺とおふくろは私の顔を見てビックリ仰天した。甲府にも行った。ここも鉄筋のビル(松林軒)が一つ、ポツンと焼け爛れて残っているだけで一面の焼け野原だった。薄汚れた衣服を着て、すすけたような顔の中に二つの目だけが鋭く光った少年たちがチュウインガムやチョコレートをほしがって集まって来る。あっちこっちで、そんな象徴的な光景に出っくわした」


相次ぐ空襲、果ては広島、長崎への原爆投下。見る影もなく叩きのめされた日本。住まいはおろか今日のメシにも事欠く人々。それが母国・日本の姿だった。れっきとした日本人の血が流れながら、全く立場を異にした米軍としての日本進駐。同じ日本人だから、その心の複雑さは十分すぎるほど分かる。言葉に言い尽くせぬ切なさを味わっただろう。


5年ぐらい前、やはりハワイを訪れたとき、その従兄弟は真珠湾に浮かぶ戦争記念艦・アリゾナ号に案内してくれた。日米開戦を象徴する、あの真珠湾攻撃の放火を浴び、その日の出来事をつぶさに見ていたアリゾナ号。今なお、この船の底から流れ出る油は不気味だった。あの忌まわしい第二次世界大戦をもたらした66年前の出来事を「真珠湾は忘れないぞ」といっているようであった。


昭和171119日。いわゆる戦中生まれの私も今年66歳になる。わずか3歳足らずでの戦争体験。田舎に住んでいたせいか、記憶は全くない。いわゆる戦争を知らない子供たちである。忌まわしい戦争がどんどん風化されてゆく。その真珠湾と目と鼻の先にあるワイキキの浜辺ではナイスバデイの日本の若者たちが波に戯れ、はしゃいでいた。

真珠湾が見える丘

 ハワイ家

 アメリカ旅行でハワイ滞在中は従兄弟の家にお世話になった。そこは真珠湾が見下ろせる閑静な住宅街であった。それぞれかなりのスペースを持った住宅はいずれも平屋建て。上手に区画整理されていて、街路も広く、圧迫感が微塵もない。のどかな感じを受ける。申し合わせたようにそれぞれの家には木で出来た自動シャッター付きの車庫がついていて、屋根は瓦ではなくブロックの木造りである。木造りのシャッターはどこの家も格子模様だ。



 平屋建てと併せて屋根に重量感がないのも街全体に圧迫感を感じさせない理由かも知れない。木のブロックを重ね合わせた屋根は雨の音をうまく吸収してくれるようだ。時々スコールのような雨が降ったが、少しもうるさく感じなかった。



これも申し合わせたように庭には刈り込み形の植木が幾種類も植栽してある。平屋建ての住宅との調和のためなのか大きな樹木は植えていない。玄関ドアを開けて中に入ろうとすると,従兄弟から「待った」がかかった。靴は外に脱いで家に入るのだそうだ。少なくともこの住宅街の家のつくりは同じだが、みんなが玄関の外で靴を脱いで入るのではない。従兄弟夫婦は日本人。欧米人のように外と内が土足の生活様式ではない。そんな詳しい説明はしなかったが、頭ではすぐうなづけた。でも、その違和感は滞在中ずっと消すことは出来なかった。ちょっと改良したらいいのにと思ったのは一緒に行った女房も同じだろう。玄関に上がりかまちがないのだから靴は外に脱ぐしかない。

ハワイ 家

車庫はどの家も車2台が入るスペースを確保しているが、家の前の道路にはそこに入り切れない車が止まっている。夕食後、散歩がてら広い住宅街を20分ほど歩いてみた。何気なくそれぞれの家の前に止まっている車をみているうちにその車種を調べてみたくなった。結果は何とここでは90パーセントが日本車だった。ちなみにトヨタ車が大半を占めた。



ハワイには定期バスはあるが、鉄道も地下鉄もない。だから日本の田舎のように車がなければ1日とて過ごせないのである。一家に2台、3台はあたり前。成人の数だけ車を持たなければならないから、その量が多いのは当然だ。この国の車の所有率はすごく高いだろう。朝夕のラッシュ時は日本と同じようにすごい。ただ日本と違うのは道路が10車線、12車線と広いからまさに車の洪水だ。その解消策かどうか分からないが、時差出勤を採用している企業が多いのだそうで、朝4時、5時に出勤するサラリーマンも多いという。組合が強いこの国のこと、きっちり8時間労働だから帰りも早い。午後1時、2時には帰宅しているサラリーマンも多いことになる。



 ハワイは小さな島の集まり。アメリカ全土で見た場合、国土が広いから鉄道や地下鉄、それに定期バスをくまなくネットワークするわけにはいかない。車産業が発達したゆえんがそこにあるし、車がなければ一日も過ごせない現実がそこにある。ただ、この車産業、トヨタやホンダ、日産、マツダ,三菱など日本車に40パーセントのシエアを取られ、さらに追い上げられているのだから心中穏やかではないだろう。現に経営危機に陥っている有力メーカーも出てきているという。

日本車が自動車王国を席卷

車
 約20日間のハワイ、アラスカ、ヴィクトリア、シアトルの旅を終えて日本に帰ったら、ちょうど、その日の新聞はトヨタ自動車のアメリカでの売り上げダウンと販売計画の修正を伝えていた。アメリカ経済の落ち込みが原因の一つらしい。
 トヨタ社の販売計画の修正はともかく、私は20日近くの旅でアメリカにおける日本車の多さに正直ビックリした。トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、三菱、いすず。片側1車線、2車線の日本と違って、5車線、6車線と道路の構造こそ違え、そこを埋める車を見る限り、日本の国内を走っているような錯覚に陥りもした。
それもそのはず。シアトルで聞いたガイドの説明では全米の日本車の占有率は40パーセントを超すのだそうだ。ハワイでは日本車はもっと顕著で、完全に逆転しているように見えた。日本車に混じって、アメリカの国産車やベンツ、BMW、アウデイなどの外車が走っているようにすら見える。
そのタイプというか大きさも日本車とほとんど同じ。その昔、羽根を後ろに広げたような大型で、デラックスなアメ車は1台も見られない。日本で時々見かけるそのキャデラックやフオードなどの存在がむしろ不思議なくらいである。ただトラックのタイプは日本とちょっと違う。日本のトヨタ車などもアメリカ車に合わせているようで、いかにもゴツイ。広い国土がゆえに、長距離を走らなければならないからだろうか。
キャデラックやフオードなど大型のアメリカ車が姿をけす一方で、顕著なのは日本のような小型車が走っていないことだ。したがってここでは小型車という区分すらないのだそうだ。これとは対照的に数年前に行ったフランスでは小型車のオンパレードであった。シャンデリゼ通りや凱旋門などまで小型車であふれていた。原油高は進む一方。アメリカも小型車時代を迎えることは間違いない。いかに道路が整備され、自動車の国といっても庶民は原油高には勝てないだろうし、はしこい日本の自動車産業はこの機を逃すまい。

シアトルの道路
もう一つ車の色だ。日本では落ち着いた、というより汚れにくいといったほうがいいかもしれないが、白が多い。しかしここでは赤、青、黒、黄色、もちろん白もあるが、きわめてカラフルである。両側で10車線を超す日本では高速道路並みの道路が立体で、縦横に走る。カラフルな車の広い帯は周囲のビルや木々の緑と見事に調和していた。すべて一般道のこの道路の制限速度は日本の高速道路並みである。
 自動車王国アメリカ。これに対して日本はいわば後進国。日本がボツボツ車社会に突入しょうとしたのは昭和40年前後だろう。それを照明するような歌がある。昭和39年(1964年)に発売された小林旭の「自動車シヨー歌」がある。その歌詞にはトヨタ,日産など日本車を盛り込んでいるが、パッカード、シボレーなどアメリカ車のウエートが大きく、ベンツ、ジャガーなど英国、ドイツ車の群を抜いている。アメリカが栄光の時代であったことは間違いない。それから40年を過ぎた今、日本は、その座をアメリカと変わろうとしているのである。

8という数字

ハワイ8

 

「七転び八起き」とか「末広がり」といって、わが国では8は縁起のいい数字だ。しかしハワイ王朝にとって8という数字は、結果的にその終焉を意味する不吉なものであった。


 かつてこの王朝が支配したハワイには8つの島がある。南からハワイ島、マウイ島、ラナイ島、マルカイ島、オハフ島、カウアイ島、それに人を寄せ付けない無人島と、個人が所有する島だ。ご存知、州都ホノルルはオハフ島にある。


 アラスカに次いで50番目の州になったハワイ全土の人口は今、ざっと120万人。うち約80万人がホノルルを中心としたオハフ島に住んでいるのだそうだ。一年中アロハシャツとサンダルがあれば過ごせる、まさに世界のリゾート地である。ワイキキの浜辺では1年を通してナイスバデイの若者たちが海水浴やサーフインを楽しみ、リタイアした老夫婦たちものんびり日光浴をしている。白人や黒人に混じって浜辺ではしゃぐ日本人の姿も少なくない。ただ、一年中アロハシャツとサンダルがあれば過ごせるということは、裏を返せば、ここで世界のファッションなどというものは決して生まれるはずがない。


 ハワイはもともとは一個の王国。あの有名なカメハメハ大王から始まって8人の王様が8つのハワイ諸島を支配するのである。しかし8世でハワイ王国は終焉を迎え、1889年、アメリカ合衆国に組み入れられる。建国から98年、ハワイ王国は100年足らずの歴史しかないし、アメリカになっての歴史も120年足らずということになる。


 ハワイ王国はどうして100年足らずで崩壊してしまったのか。ホノルルからそう遠くないところにあるビショップ・ミュウジアム(博物館)の学芸員によれば、血族結婚にその原因の一つがあった。ハワイ王朝は代々、王族間で婚姻が結ばれた。そのためか病弱の王が多く、100年足らずで8人が王様を交代するハメになった。ひとりが平均12年3ヵ月しか王位を勤めなかったことになるから、いかに短命政権が続いたかが分かる。


 そのことに気づいた王室は8世(女王)のとき、その婿に一般人を迎え入れた。しかし時はすでに遅く、8世の女王は20歳台の若さで病死、王家の血筋は完全に絶えてしまったのである。皇室間の婚姻に終止符を打ち、2代に渡って皇太子妃を一般人から迎かえたどこかの国とよく似ている。皇室ではないが、265年続いた日本の徳川幕府の将軍職は15人。1人平均の在職期間は176ヵ月。やはり、それほど長くはないが、ハワイ王朝とはちょっと違う。徳川幕府は家柄を重んじた縁組の一方で、万一の場合を考え、後継者を確保する手段として公式に≪大奥≫というシステムを作った。そこには血縁の近い婚姻がもたらす弊害を避けようという意図もあったのである。


 女王を亡くした婿は王家の全財産を学校や博物館の建設などハワイの公共事業に寄付、98年のハワイ王朝に終止符を打ったのである。その人の名がビショップ氏、この博物館も王朝が崩壊した年に建てられたもので、ビショップの冠がつけられた建物は威厳をも漂わせる見事な建築だ。その年は1889年というから日本の明治中期である。中身も2400万点をも所蔵、当時のハワイ原住民の生活や風俗、習慣が一目で分かるよう気を配っている。


 ハワイの原住民には生活の中に文字というものが無かった時代があった。カメハメハ大王の後を継いだ2世の王(カメハメハの息子)は、このことを憂い、12の文字からなる言葉を作った。いわゆるハワイ語である。アルハベットが26字だからその構成は極めて少ないが、人々に文字による言葉が初めて生まれたのである。3世(2世の弟)は土地を住民に解放する一方、コイン(通貨)や切手を発行、ホノルルをハワイの首都に定めた。こうしてハワイ王朝は国家としての体裁をだんだん整えていくのである。さらに4世(3世の甥)は病院を作り、5世(4世の兄)は日本と平和条約を締結して外交への足がかりを作った。6世は老人ホームを造り、7世はサトウキビ農場を奨励して住民の経済基盤を確立したのである。特に7世は平和条約を足がかりに日本の皇室との縁組を提案している。しかし、この提案は実らず、8世の民間アメリカ人迎え入れにつながっていく。そのころ日本の天皇家がハワイの皇室と縁組をするはずがない。


 王を王室だけで継承したのは5世まで。6世から議会から選ぶ、いわゆる公選制にしたのである。血縁による婚姻から起きる弊害で王位の継続すらままならないハワイ王朝の裏側が透けて見える。例えば2世の兄から王位を継承した3世は、若干10歳であった。

博物館

ビショップ・ミュウジアム

 ビショップ・ミュウジアムのエントランスホールには、左側にハワイ王朝最後の女王8世の肖像画が、右側にその婿ビショップの肖像画が大きく掲げられ、その右側の大きな部屋には威厳と威儀をただしたカメハメハ大王から7世までの肖像画が展示されている。

肖像画

エントランスをはさんで右側、さらに2階、3階の大きな展示ホールにはざっと2,400万点といわれるハワイの歴史、文化、自然にかかわるコレクションが並んでいるのである。その一つひとつにハワイと南太平洋諸島の逸話をはらんでいることは間違いない。


メモ

※ハワイ州の木 ククイ=レイに用いたり、種はキャンーナットに。

※クアの木 成長が遅く80年で1メートル キャプテンクックが貿易に。白檀。

※ティの木 魔除け,葉はラウラウの料理に。

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プロフィール

やまびこ

Author:やまびこ
 悠々自適とは行きませんが、職場を離れた後は農業見習いで頑張っています。傍ら、人権擁護委員の活動やロータリー、ユネスコの活動などボランティアも。農業は見習いとはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定も。でも高い所が怖くなりました。
 ブログは身近に見たもの、感じたものをエッセイ風に綴っています。

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