油と農家の今昔

大豆


 ゴマ、菜種、大豆、ヒマ・・・といえば共通点はなんだ。クイズの出題ではないが、答えはである。私が子供の頃、山梨のこの付近の農家では、ゴマや菜種を作った。もちろん、食用油にするためで、ヒマは薬用だったように思う。「ひまし油」といって漢方の下剤のように使ったりもした。葡萄、桃、サクランボなど現在のような果樹地帯になる前の事。主力の米麦、養蚕の農業の傍らで、どの農家も大根や、タマネギ、人参などの野菜ばかりでなく、食用の油まで自らで作ったのである。味噌、醤油は当たり前。


 


 いわゆる自給自足型の農業形態だった。屋敷の片隅にはニワトリ小屋やウサギ小屋。ヤギ小屋もあった。池には鯉が・・・。それがそのまま卵や肉、乳、つまり私達の蛋白源になった。古くなったニワトリは≪潰して≫肉を食べるのだが、この時、おふくろは「骨団子」といって、ニワトリの骨まで子供たちに食べさせた。骨を潰して団子状に。カルシュームの摂取を考えたのである。一方、牛乳ではなく山羊乳。私なんかヤギの乳で育ったようなものだ。もちろん乳搾りは自分たちで。何人もの兄弟が日替わりの当番制で搾った。


ヤギ


 その頃の我が家の、また、この付近の農家の食料自給率は100%に近かっただろう。過去のデータからみてもわが国全体の食料自給率は70%をはるかに上回っていた。それが今はどうだ。政府統計によれば、40%そこそこに落ち込んでいるのである。田舎のこの付近では食料ばかりでなく、暖房や調理のためのまで焼いた。炭焼きをしないまでも、炬燵の火はかまどの消し炭を使った。全てに貧しさの中で育まれた≪生活の知恵≫があった。




 食料需給率を落としたのは経済活動のさまざまな歯車にほかならない。それに人間の飽くなき合理化への欲求が拍車を掛けた。慣れないソロバンをはじいた農家は利益を追求するあまりに集約農業に走った。大根、白菜、なす、キュウリなど野菜はおろか、主食の米まで作ることを放棄したのである。例えば果樹農家は、主力の桃や葡萄、サクランボの生産性を上げるために、米も野菜もスーパーに求めた。ましてや手間がかかるゴマや菜種からの油の製造などするはずがない。

 
葡萄9月 


 平野部での大規模農業はともかく、圃場の構造が変わらない地方の農家も、確かに生産性を向上させた。しかし≪蔵が建つ≫ほどの利益に結びついたかというと、とんでもない話。そこで得たお金は、外国からの米麦や野菜、肉に姿を変えるだけに過ぎない。一方で、大規模であろうが、なかろうが、そこに残るのは農機具の減価償却残留農薬。農機具を例えて、口の悪い人は「機会貧乏」と言う。言い得て妙である。さらに、こうした農家を不安に陥れているのが自らの老齢化と後継者不足だ。一見合理的に見える集約型農業の内側で、さまざまな現実の矛盾に気付きながらも、そこからの脱出はもはや困難。




 そんな農家をよそに、非農家の人達は野菜作りや炭焼きを。只で貸してくれもする農地を上手に使っての野菜作り、果樹作りが年々盛んになっている。いわゆる「一坪農園」。何よりも農薬漬けの農家を尻目に、こちらは無農薬の野菜を作ってニンマリ。炭焼きだって今や趣味と実益。旅した伊豆大島で久しぶりに炭焼き小屋を見てそんなことを思った。




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椿の実

椿


 あんこと椿。私達が仲間達と訪ねた伊豆大島では、あっちこっちのお土産物屋さんに椿油が売っていた。一宿一飯、お世話になった民宿「朝海館」では、椿の花の天ぷらが。「へえ~、椿の花が天ぷらに・・・」。初めて食べた。これがうまい。大島の人達の知恵はこんな所にも。花より団子である。





 椿油は、ここ伊豆大島の古くからの名物。特に生の椿油は高価な化粧品だという。私達、無粋な男どもにはそれ程関心はないが、かみさんをはじめ女性たちは行く先々でそこに引っかかる。女達は計算高い。私達の案内役、ホスト役を買って出てくれた島の肝っ玉母ちゃんの顔で、割り引き料金で買えるとあって「もう一本、もう一本・・・」。


生の椿油 生の椿油

 島巡りのマイクロバスを運転してくれた民宿「朝海館」(http://www.asamikan.com/)の親爺さんは、こんな話をしてくれた。




 「椿の実からは良質の油が取れるんです。だから生の油は化粧品として女性の皆さんから喜ばれるし、需要が多いのです。もちろん食用にも使われます。しかし、高価ですからとても一般家庭で天ぷら油として使うわけにはいかないでしょう」


油しぼり

●椿油しぼり●


 前の晩、夕食の宴に出してくれた椿の花の天ぷらは、椿油で揚げたのか?そんなことはあえて聞かなかった。お土産物屋さんの別棟には椿油を搾る体験コーナーが。そこで製品を作っていて、油搾りの実演を見せながら、観光客に体験をさせてくれるのだ。椿の種を潰す臼、それをさらに押し潰して搾る圧縮機・・・。臼は昔、私達の田舎にもあった水車小屋のそれとまったく同じ。大きな木の臼に歯車で動く杵の役目を果たす棒状の木が椿の種を突付く。それを取り出し圧縮機に掛けるのだ。椿はその種類が多岐にわたるから、実だってさまざま。しかし、それがみんな椿油になるのではないのだという。東京都立の椿公園がその典型だが、島にはさまざまな品種の椿がある。島原産の限られた品種の実を使うのだそうだ。島にはそのための企業の椿林もある。


せんべいづくり

●せんべいづくり●


 炭。高級品として知られるのは和歌山県の備長炭。その原木はウバメ樫を使うのだが、民宿「朝海館」の親爺さんによれば、椿の炭の方がもっと上。高級品だという。しかし炭を焼く人はどんどん減り、三原山の周りに数多くあった炭焼き小屋は、今では数えるほどになった。「観光客に炭焼きの体験をさせたら・・」。素人はそんなことを考えるが、これこそ時間がかかってそぐわない。観光地にはお客さんが身体でその土地の特産品作りを楽しめる体験コーナーが。椿油搾りばかりでなく、この島には三原山の噴火を題材にした「大島御神火太鼓」の体験コーナー、陶芸せんべい作りの体験施設もあった。これまでの「見る観光」から今は身体で味わう「体験観光」に変わっている。島の火山博物館には模擬の火山地底探検が出来るシュミレータ・カプセルも。島には立派な施設がいっぱい。でも思ったよりお客が少ない。「こんなことで大丈夫?」。町も観光協会も人を集める工夫をしなければ・・・。まったく余計なお世話だが、心配になった。


 
大島御神火太鼓          陶芸
●大島御神火太鼓 ●                    ● 陶芸


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大島と弟

大島

 伊豆大島というとを思い出す。今は東京・板橋で80人前後の従業員を抱える印刷会社のオーナーだが、若い頃、思わぬ事故で脊椎を損傷、九死に一生を得た地だ。私がまだ東京で貧乏学生をしている頃だった。「俺は大学にはいかない。兄貴より早く実社会に出て、仕事をする」。弟は早くから自分の行く道を土木の仕事と決め、山梨県立高校の土木科を選んで東京の大手ボウリング会社に就職した。





 これが結果的に、この男の運命を変えたのである。昭和39年か40年頃の出来事だった。弟は社命を帯びて大島・三原山近くの温泉掘削現場に向かった。弟のかつての話しによれば、東京・竹島桟橋を出る船を一本遅れ、波浮の港に着いたのは夕暮れも迫った頃だった。「よせばいいのに」その足で夜の山道を現場に向かって歩き出した。


三原山



 弟は「落ちた所は噴火口のような溶岩の窪み」というのだが、気づいた時には、その窪みというか、穴の中だった。たまたまの雨に打たれて、気絶状態から醒めた身体は動かそうにも動かなかった。自分でも脊椎をやられたことに気づくのに時間はかからなかった。寒くもあった。「このままでは死んでしまう」。必死に這い出だした。後で見た真新しいスーツはボロボロ。夢中だったからどのくらいの時間這いずり回ったか分からないという。


炭焼き小屋1    炭焼き小屋2


 しかし、この男には運があった。這い回る山道の脇に炭焼き小屋が。その釜は暖かかった。雨に打たれた身体に暖を取るのに十分。「朝が来れば、この炭焼き小屋の親爺が来るかもしれない」。祈るような気持ちで、釜に張り付いて、ひたすら朝を待った。背骨が死ぬほど痛む。もちろん睡眠など夢のまた夢。まんじりともしない夜が明けた。外に這い出した。「誰も来ないのか」。待つ時間はこれも死ぬほど長かった。ケイタイなどない時代である。




 来た。そこから大島の人達の心優しい救出劇が。弟の脊椎損傷の大怪我は町の病院では手を施すすべがなく、ヘリで東京の労災病院へ。みんな大島の人達の連係プレイによる善意だった。たまたまとは言え、この大島を尋ねたのを機会に、お会いすることが出来るものなら、関係の方々に九死に一生を得た弟に代わって、改めてお礼を言いたかった。


ヘリ


 「弟さんが怪我をされた所は恐らく、今、三原山にあるホテルを建設した当時の温泉掘削現場だと思います。45年も前のことですから、その頃の関係者はもういないでしょうし、付近の道も景観も様変わりしました。当時はかなりあった炭焼き小屋も激減、今は数えるほどです」




 私達の大島観光をマイクロバスで一日中案内してくれた民宿「朝海館」http://www.asamikan.com/)の親爺さんは、出来ることならその関係者を探してあげたいと言わんばかりにこう言った。三原山が大爆発を起こしたのもこの後。弟が東京からの連絡船で着いた波浮の港も今ではその使命を終えて、ありふれたような漁港に。少なくとも三原山の噴火当時は1万人を越えていた島の人口も、今では9千人を割ったという。一方、就航便は減ったとは言え、1,800mの滑走路を持つ空港も出来た。水に乏しく、風呂の湯が古くなると牛乳風呂にして≪ごまかした≫という島にも地下水確保の手立ても出来た。島は良くも悪くも変わった。そこには穏やかな島のたたずまいがあった。


椿


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卒業式と「仰げば尊し」

桜


 「古い奴だとお思いになるでしょうが、古い奴ほど・・・♪」


 あの往年の銀幕の大スター・鶴田浩二の歌の導入部分にある台詞だ。その歌い出しはファンならご存知、「何から何まで真っ暗闇よ・・・♪」と続く。ここで言いたいのは「真っ暗闇」ではなく、ただなんとなく寂しいだけである。私達、オジサンの世代の人達だけかもしれないが、かつては卒業式の定番だったといってもいい「仰げば尊し」「蛍の光」のメロディーがだんだん影を薄くしていることだ。




 3月もぼつぼつ終わり、桜の4月が。巣立ちの春であったり、人事の季節でもある。この時期、子供たちの卒業式や入学式の一方で、官公庁や民間の会社で人事異動が行なわれる。もちろん、不満だってないわけではないが、子供、大人を問わず、多くは「希望の道」へ動き、羽ばたく季節。その現実的なスタイルといえば、親元を離れ、下宿やアパート暮らしをする学生もいれば、女房や家族と別離の単身赴任を余儀なくされるサラリーマンもいる。受験に失敗、捲土重来を期す若者もいるだろう。


日川高校卒業式2
日川高校卒業式


 そんな「次」へのステップになるのが卒業式。今年も母校・日川高校とやはり母校でもある地元の小学校の卒業式に前後して招かれ、席を汚した。その卒業式のあり方は高校生と小学生の違いだけでなく、ムード的にも違った。例えば、式で歌う歌。国歌「君が代」は両方に。しかし「仰げば尊し」と「蛍の光」は小学校からは消えていた。小学校では、なんと言うタイトルの歌なのか分からないが、それに代わる別の歌を歌う。


桜2  


 一方、高校では「仰げば尊し」を「式歌」として位置づけていた。式の最後に卒業生が歌う。なんとも味わいがあり、私なんか今でも卒業式にぴったり、なくてはならない歌のように思っている。私ばかりではなかった。来賓席のオジサンたちみんなが孫のような高校生達に合わせて口ずさんでいた。「仰げば尊し わが師の恩 学びの庭にも・・・」。今過ぎた3年間の学園生活の思い出であろうが、何十年前のそれであろうが、郷愁は変わらない。むしろ年月が経てば経つほどその重みを増す。世話をお掛けした恩師への感謝の念をも込めた、この歌には人の心を純粋にさせる何かがある。


日川高校卒業式
日川高校卒業式

 卒業生が歌う「仰げば尊し」の後に続くのが「蛍の光」。送る立場の在校生が歌うのだ。「蛍の光 窓の雪 何時しか歳も・・・」。このマッチングがまたいい。外国の民謡だが、日本では別れの曲として歌い継がれてきた。「仰げば尊し」と共に歌う人の心や胸を熱くさせるから不思議である。




 小学校で、この二つの歌を歌わなくなってもう久しいという。子供たちの歌感覚が違ってきたのか、それとも進歩的な先生の指導、誘導なのか。いずれにしても、その二つの歌を卒業式で歌うことがなかった若者達が先生になっている。「なぜ歌わないのだろう」などと郷愁に慕っているオジサンたちを尻目に、今の子供さんたちはもう、この歌の存在すら知らなくなっているのかもしれない。これとは別に、教育現場では国歌「君が代」を否定する先生方もいるという。子供たちはそんな教育を受けて育ち、社会に出ていく。


岩手小卒業式
岩手小学校卒業式

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卒業式の感動

岩手小卒業式


 元総理の小泉さんではないが感動した。卒業生の数13人。小さな学校だから出来た卒業式の風景だった。1時間15分の式の大詰め。卒業生を「送ることば」と、それへ応える「別れのことば」。私達の頃は多分、「送辞」とか「答辞」といったのだろうが、これを代表ではなく、みんなでやるのである。≪優等生≫の言葉ではない、顔も背丈も個性も違う一人一人がしゃべるからお面白い。一人が故の単調にならないので話にも味わいがある。


岩手卒業式


 卒業生はステージ前にひな壇のように並び、在校生と向き合う。山梨市にあるこの学校の児童数は全校で64人。まず在校生が「送ることば」を述べるのだが、それをワンフレーズずつ代わる代わるやるのだ。卒業生の「別れのことば」も同じ。在校生は5年生から、ついこの間入学したばかりの1年生まで幅広い。小学生の1年、2年間の体力格差は歴然としていて、1年坊主は、まだあどけなさが。式に臨んでも無邪気は隠せない。



卒業式2


 5年生、4年生などお兄さん、お姉さん達が運動会など≪先輩達≫との思い出を話せば、1年生は1年前、手を引いてもらって臨んだ入学式の思い出を。一人ずつみんなが大きな声で言葉を区切って「送ることば」をリレーしてゆく。これがまた可愛らしい。最後に全員で「中学校でも頑張って」と結ぶのだ。一方、卒業生は下級生と一緒になっての学校ぐるみの太鼓演奏や遠足、また修学旅行など6年間の思い出を同じようにワンフレーズずつ区切って言葉をリレーする。同校は山梨県の小学校で初めて導入された文科省の英語教育実践校。その授業のエピソードも。男5人、女8人。みんなの目に涙が。感極まって涙声になる子も。こちらも最後に後輩にエールを送る。「みんなで力を合わせ、学校を盛り上げて」。来賓席のオジサン達も胸が熱くなった。同校は児童数が激減、このままでは近い将来、存続すら危ぶまれている。



卒業式


 式が終わり、えんじの着物、袴姿の担任女教師の先導で、在校生や教職員、来賓などの拍手の中を退場する卒業生。この後の演出がふるっている。一旦、式場を出た卒業生は再び会場に戻って、その入り口に設えられた和太鼓を演奏するのである。式次第にはないサプライズだった。この小学校には学校の名前と地域の名をとった「岩手太鼓」という太鼓隊が編成されている。小さな学校だから中学年以上は全員がメンバー奏者。裏を返せば、この学校の卒業生は全員が太鼓を叩くことが出来るのだ。もう20年近い歴史があって、山梨市内はもちろん、山梨県内でもちょっと知られた存在だ。「この太鼓の響きを何時までも」といわんばかりに、堂々の≪カーテンコール≫。拍手喝さいだった。


岩手太鼓


 時間はちょっと遡って卒業証書の授与。卒業生席から一人一人卒業証書を受けるのだが、そのマナーは12歳の子供とは思えないほど素晴らしい。多分、リハーサルもしているのだろう。名前を呼ばれて校長先生から壇上で証書を受け、席に戻るまでの歩き方、恩師や来賓への挨拶の仕方、その間合いまで堂にいっている。そんな子供たちに校長先生は、ある作家の言葉を引用しながら「あなた方の未来には『希望の道』がある。優しさと思いやりのある人こそ本当の強さのある人間だ」とはなむけの言葉を贈った。その校長先生の眼にも涙が・・・。心を洗われるような卒業式だった。ただ「仰げば尊し」や「蛍の光」の斉唱がないのがオジサン達の年代には寂しかった。それは卒業式から消えて久しいのだという。卒業式も変わった。




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バームクーヘンの歳月

溶岩流


 「お父さん、あれバームクーヘンみたいだね」



 

 言い得て妙。うちのかみさん、時々面白いことを言う。まさにぴったり。自分のかみさんのことを褒めてはおかしいが、こんな子供のような単純比喩は一流作家では出来まい。ユネスコの仲間達との旅行に連れて行った伊豆大島で、火山の噴火で出来た地層の断面を見た時の素直な表現だ。恐らく、道路を切り開いた時に出現したのだろう。その切り口の地層は何万年もの時を経て噴火に噴火を重ねながら層を重ね、女房が言うようにバームクーヘンのような形状を今に伝えていた。


バウムクーヘン  


 一口に言えば、伊豆大島幾たびもの噴火と海水の浸食によって出来た島。気の遠くなるような何万年もの時の中で繰り返された噴火によって火山灰が何重にも重なって今のように形作られたのである。うちのかみさんが素直に、いみじくも言う≪バームクーヘン≫の地層はそうして出来たものだ。かみさんはこうも言う。




 「これ、触ってみると、さらさらしているね。明らかに地層が変わって見えるけど、みんな土だよね」




 「当たり前だよ。これは溶岩流の堆積ではなく、噴煙として吐き出された火山灰だよ。それが時の流れの中で風化したもので、今、俺達が踏みしめている大地だって、その成れの果てさ」


火山博物館4


 好奇心豊かな子供と、ちょっと知ったかぶりをしたお父さんのような、どこにでもある、たわいもない会話である。地元の人たちはさて置き、そこを通る観光客はまるで申し合わせたように、沿道に車を止めては上を見上げ、その地層を眺めるのだ。そこに厳然と浮かび上がる何層もの地層には何万年もの歴史のロマンを感じざるを得ない。


火山博物館2


 山梨もその一つだが、日本は火山列島。火山があるが故に温泉王国でもある。温泉は岩石などの割れ目をくぐって、一旦、地下深く沁み込んだ雨水や海水が地下のマグマから発せられた地熱によって暖められて再び地表に湧き出てきたもの。そんな地下ではマグマや温泉から、さまざまな成分が沈殿して鉱産物資源が作られるのだ。戦国の世に武田信玄が開発した甲州の金山も、それも含めて後に徳川政権が開発した佐渡金山も、元をただせば火山が育んだものなのである。

火山博物館


 島には火山博物館がある。世界的にも数少ないといわれる火山専門の博物館で、子供でも大人でも、地球のエネルギーである火山のことが一目で学べる仕組みになっている。火山の最前線のデータや世界の火山紀行、火山百科の展示室のほか、大島の自然と人々の生活を映画で見せる300席の映像ホールもある。さらに模擬火山地底探検ができるシミュレーター・カプセルも。


火山博物館5


 「この博物館は、こと火山にかけては世界的にも数少ないアカデミックな施設なのです。外国からも火山研究のオーソリティーがやって来ます」


 

 かつて町役場の職員を務めたことのある案内役の友はこんなことも話した。旅の中では、あっ、と驚くような世界の貝が陳列された珍しい貝博物館も見せてくれた。


火山博物館3

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波浮の港

大島


 「森繁久弥って字がうまかったんだなあ」




 伊豆大島の波浮港の一画に設けられた歌碑「波浮の港」の前で仲間の一人がつぶやくように言った。



 「磯の鵜の鳥ゃあ 日暮れにゃ帰る 波浮の港は 夕焼け小焼け・・・」



 そう。野口雨情、中山晋平のコンビで作られた唱歌「波浮の港」。日本人なら誰でも一度は口ずさんだことがある歌だ。何匹かの鵜があしらわれた、その歌碑は折からの雨に打たれて、黒く佇んでいた。歌碑の揮毫者は森繁久弥である。


海で


 伊豆大島を訪ねた私達を真っ先に案内してくれた所は、この波浮港だった。港には大小の漁船がいっぱい係留されていた。海がしけているため漁に出ることが出来ないのだろう。「それにしても漁船ばかりだなあ。連絡船は来ないの?」。そう思っていたら、その疑問に答えるように案内役の仲間がこう言った。




 「歌のイメージにもあるように、確かにかつては連絡船が入る港でした。しかし今は連絡船は入って来ません。波浮港は漁港になったんです。連絡船は島の残る2つの港・元町港と岡田港に着くのです」

 
大島の海



 現に山梨の私達が熱海港から連絡船に乗り、着いた先は岡田港だった。もちろん帰りも同じ。私達は伊豆大島といえば三原山と共にこの波浮港を連想する。それほど大島の玄関口としてのイメージが強いのだ。山梨からこの大島に嫁いで来て40年、私達・かつてのユネスコの仲間たち17人を迎えてくれた島の肝っ玉母ちゃんが最初に案内してくれたのもそのためだろう。入り江に囲まれた港は、そんなイメージをかすかに残しながらも、ひっそりとした漁港のたたずまいをみせていた。




 ひっそりしていたのは波浮の港ばかりではなかった。島の西側、三原山の山麓にある空の港・大島空港はもっとひっそりしていた。それもそのはず。東京・羽田からの便が一日一往復しか就航していないのだという。飛行機が一機も泊まっていないので、滑走路が見えなければ、空港の存在に気付かないかもしれない。空港ビルを案内して頂いたのだが、見学組みの私達を除いてお客さんは人っ子一人いない。


大島空港  


 受付カウンターにも人影はなく、管制塔にも管制官の姿は見えなかった。エスカレーターで上がって2階から窓越しに見える広い駐車場には10数台の乗用車が。朝の便で東京に向かったお客さんの車だろう。それとも空港職員の車か。閑散とした大島空港構内は異様な雰囲気を呈していた。ビルの2階で営業していた喫茶ルームが際立って不自然にさえ写った。





 この空港は1964年6月に開港した第三種空港。2002年、開港時の滑走路1,200mを1,800mに延長したものの肝心の就航は減便。わずかなお客さんを乗せて大島―羽田間を飛ぶYS11機を頭に浮かべてみた。一方、頭の中でオーバーラップしたのが先頃開港した茨城空港。現在の就航便は韓国からの1往復だけだという。大島空港と重ね合わせて、なぜか不吉な予感がした。




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あんこ椿

椿


 「あんこ」は「あねっこ」という伊豆大島の方言がなまったものだという。この島では、今でも言葉の最後に「こ」を付ける「〇〇っこ」という言い方が多いのだそうだ。




 「三日遅れの 便りを載せて 船は行く行く 波浮みなと・・・」




 ご存知、都はるみのデビュー曲「あんこ椿は恋の花」である。昭和40年代、一世を風靡したといっていいほどヒットしたこの歌は「あんこ」という言葉を世に知らしめ、大島紬や椿、三原山など日本人の目と心を伊豆大島に向けさせた。


椿2


 だから私達は波浮の港と聞けば連絡船が行き来する伊豆大島の玄関口を連想し、「あんこ」と聞けば、紅い椿はもちろん、大島紬の着物をまとい、あねさんかむりのお姉さんをイメージしたのである。そこに島の風土や島の人達の心、生活ぶりまで思いをはせることが出来るから、歌とはいつの世でも不思議な力を持っている。


椿4


 島では毎年、1月終わりから3月いっぱい「椿まつり」が開かれる。私達が島を旅行したのは3月第一週の土曜、日曜日。暖冬が花を早めたのか、まつりの期間中といっても島の椿はほとんど散っていた。町の観光協会や写真家が、ポスターづくりやスチール写真撮影の舞台にする≪椿トンネル≫はすでに緑一色。紅い椿はなかった。


椿3


 しかし、そこは椿の大島。あるある。その名も椿公園。色とりどりの椿の花が咲き乱れていた。どのくらいの面積になるのかは分からないが、広い公園には至る所にさまざまな品種の椿が植えられていて、入園者の目を引く。雨に打たれて咲く椿もいい。公園の奥まった一角には二つの大きな温室が。その中には、見たこともない椿がこの世の花と言わんばかりに咲き誇っていた。外国から取り寄せたり、交配に交配を重ねて作り上げた新品種だろう。カーネーションのような格好をした珍しい形の花もあるのだ。花の心など分かりようもない私のような無粋者でも咄嗟にカメラのレンズを向けたくなる。


tubaki.jpg


 ここは東京都立の公園。恐らく、何千本、何百種類の椿が植えられているのだろう。椿まつりのメーン会場。広場にはまつりの屋台や特設ステージが設けられ、あんこが都はるみの「あんこ椿は恋の花」の歌に合わせて踊りを披露したり、一緒に写真撮影をさせてくれる。大島紬の着物をまとい、あねさんかむり姿でカメラに収まる仲間たちは女も男もご満悦。その写真はマイクロバスの中でも和やかな話のタネになったことはいうまでもない。


つばき


 伊豆大島は東京都。当たり前だが車のナンバーは品川ナンバー。何故かそのナンバーに違和感が。その昔、江戸の時代には八丈島と並んで流刑の島でもあった。月代わりで当番に当たった北町奉行、南町奉行所で裁かれた重罪者はここに送られ罪を償ったのだ。「鳥も通わぬ・・・」と言われた八丈島と比べれば軽度の犯罪者の流刑地。八丈島が殺人などの犯罪者とすれば、伊豆大島は盗みや粗暴犯。とにかくそんな一面を持つ島でもある。




 大島と八丈島。ひと頃は空の定期航路もあったが、それがなくなって久しい。大島旅行の案内役をしてくれた仲間によれば、八丈島経由で大島に来る飛行機は料金が割高で、島の人達には不評だという。島の人達は平穏でいながらも、また不満だってあるのだろう。




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天に通じた「島の心」

大島  


 案内役を買って出てくれた伊豆大島の肝っ玉母ちゃんと民宿「朝海館」の親爺さん、おふたりのもてなしの心が天に届いたのか、それまで島を覆っていた霧がウソのようにパッと晴れた。もちろんそこだけだが、眼下に元町港とその街並みが。三原山の山麓から街並みの寸前まで一直線に伸びる溶岩流の跡が見える。




 「真っ赤に燃えた溶岩流は街を飲み込んでいても不思議ではなかったんですが、何故か街並みの手前でピタリと止まったのです。そこには小さな神社の鳥居がありました。神様がそうさせたのでしょうかねえ・・・。島の人達は今でもそう思っています」




 島中というより日本中が固唾を呑んで見守った「あの時」を思い起こしているかのように肝っ玉母ちゃんは言った。突然のように三原山が噴煙を上げて爆発、島を恐怖のどん底に叩き込んだのは昭和61年11月21日のことだったという。あれからもう23年も経ったのか。私はその時、JR甲府駅北口にある本社ビル3階のオフイスで、テレビ画面に釘付けされていた。大抵の会社ならもう退社時間を迎えていただろう午後6時頃の時間だった。


ワイドショー衝撃映像 for CX3・三原山噴火中に人?

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 暗闇の中に真っ赤に吹き上げる炎、それが溶岩流となって山肌の木々を焼いて流れ下りるさまは、まるで映画のワンシーンを見ているような迫力だったことを今でも覚えている。現在は町議会議員を務めるご主人と結婚し、確か大島に住んでいることを風の頼りに聞いた今の肝っ玉母ちゃんの安否も気になったものだ。ちょっとした時代の差だが、この頃、ケイタイなどというツールはなかった。せいぜいポケベルだ。




 明日の朝刊の紙面づくりにはちょっと早いが、隣のフロアーでは同僚達が紙面のトップを飾るだろう見出しを頭に描いていた。現場からその第一報が送られてくるのにそう時間はかからなかった。記事は刻一刻と詳しく差し替えられて行くのである。現場と視聴者をライブで繋ぐテレビの威力はすごい。活字人間はそんなことを思った。とにかくテレビの画面は緊迫した現地の様子を伝えるのに十分だった。



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 民宿「朝海館」の親爺さんは言った。




 「私達はみんな元町港に逃げたんです。誰もかも着の身着のまま。7,000人近い人達が港に避難、迫り来る溶岩流の行方を不安と共に見守ったのです。その後には避難生活が待っていました。島を離れて東京の親戚や知人の所に身を寄せる者、中にはホテル住まいの島民も・・・。とにかくてんでんバラバラでした。帰ってきたら犬や猫は野生化し、ニワトリも、それから逃れるために空を舞い、木に登ることを覚えていました」




 突如として起きた三原山噴火は、人間ばかりでなく島に住む全ての生活リズムを一瞬にして狂わせてしまったのである。人間が考えない所で襲う自然の脅威、その時、人間はまったくの無力で、一瞬、なすすべを知らない。ただ慌てふためくばかりだ。三原山の噴火にとどまらず、日常のちょっとしたことにだってあり得るのだ。人間はいくら威張ったところで、いくら知識や知恵があると思ったところで自然の脅威には勝てない証だ。私達を世話してくれた民宿「朝海館」の親爺さんや肝っ玉母ちゃんに感謝しながらそう思った。




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肝っ玉母ちゃんのもてなし

椿


 一輪、二輪・・・。もう盛りを過ぎた椿の花が雨に濡れていた。三原山も厚い霧に遮られて見えない。





 「せっかく遠く山梨からお出でいただいたのにすみません。この時期、大島が二日も続けて雨なんてことは、滅多にないんですがねえ・・・」





 伊豆大島の案内役を買ってくれた民宿「朝海館」の親爺さんは、椿を濡らす雨や三原山を隠す霧がまるで自分の責任でもあるかのように言った。




 「それでも行ってみましょうね。新しく出来た噴火口溶岩流の跡、霧が晴れて見ることが出来るかもしれませんものねえ」


溶岩流


 マイクロバスのワイパーには横殴りの雨が。親爺さんは助手席のご婦人に向かって相談するように言う。「そうですね。近くまで行ったら、あるいは雲や霧が切れるかもね」。




 ご婦人は半信半疑に頷いた。





 このご婦人はもう40年ぐらい前、山梨県の一宮町から、この島に嫁いだ。かつてのユネスコ活動の仲間である。今度の大島行きのきっかけを作り、受け入れのホスト役を買って出てくれた。若い頃から聡明、闊達な女性で、島では町立幼稚園の園長さんをも務め、今ではちょっとした島の顔役らしい。ご主人は町議会議員として活躍している。



桜


 民宿を手配してくれたのも、綿密な二日間のスケジュールを作ってくれたのも、この女性。「朝海館」の親爺さんにバスを出し、運転手を務めてくれるよう頼んでくれたのも恐らく、このご婦人だろう。伊豆の大島だから山梨よりか暖かいと思っていたら、お天気の影響なのか島は寒かった。それでも大島桜はもう満開。バスのフロントガラスは内部と外の温度差で見る見る曇る。その曇りを助手席にいながら、まるで親爺さんの内助のように何度も何度も拭き取る。





 外に出たら出たで、雨に濡れるのもなんのその。バスを誘導したり、私達を案内してくれる。そんな気配りは二日目の午後4時40分、岡田港を熱海に向かう連絡船が桟橋を離れるまで続いた。雨の中を桟橋でいつまでも手を振る姿に胸がジーンとした。


海


 伊豆大島への旅行団は山梨からの15人と熱海港で合流した東京からの2人。いずれも山梨県内の高校でユネスコ部に所属、後にそのOB会で活動を共にした仲間達である。私の日川高校もあれば甲府工業高、山梨高、甲府一高、甲府ニ高、山梨園芸高、機山高、山梨英和高など出身校は幅広い。年齢も60歳前後から上。70歳を超えた仲間もいる。






 今度の大島行きのそもそもは昨年夏、石和温泉郷で開いたOB会がきっかけ。大島では旧知の仲間たちの話は弾んだ。一日目の夜、寝るのも忘れて話し、酒を酌み交わした。そこ・民宿でのもてなしがまたいい。くさやあしたばのおしたしや油炒め自然薯のとろろをかけた塩辛・・・。ホテルや旅館のお膳とはどこか違う。うまい。そこはかとない味わいがある。雪の箱根越えで山梨に帰ったのは翌日の夜遅く。たまたま点けたテレビのチャンネルは江戸の文化から続く「もてなしの心」をテーマに話していた。それによると、もてなしの心は思いやりの心だという。大島の肝っ玉かあちゃんは、それを実践していた。

あしたば
あしたば


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水際作戦の盲点

 旅2


 今でこそ話すが、そこに行って来たことも、ましてや、そこから買ってきたお土産をお配りすることなど、到底出来なかった。あの新型インフルエンザ騒ぎが勃発した昨年4月28日。たまたまだが≪震源地≫のメキシコに足を踏み入れていたことが心の重みだったのだ。約一ヶ月のアメリカ、中南米の旅を終えて山梨の片田舎に戻った私達夫婦は連日、異常とも思えるほど繰り返される新型インフルエンザのニュースに、いやが上にも事の重大さを知った。新聞やテレビは一人、また一人と罹患者発見を伝え、そのトーンはまるで犯人探しでもしているよう。お土産をお配りしたら多分、汚い物のように棄てられただろう。


旅


 私達夫婦がメキシコで新型インフルエンザが発生、6人の死者が出たことを知ったのは発生の翌日(4月29日)。メキシコ沖を北上する船の中だった。船には乗員、乗客約3,500人が乗っていて、私達夫婦はいつものように12階にあるレストランで朝食をとっていた。そこに船内アナウンスが。豚インフルエンザの発生と、予定していたメキシコ第二の訪問地アカプリコへの寄港を断念して急遽、サンデゴ(アメリカ)に向かうことを告げたのだ。


船1     船2


 その時、レストランには200人ぐらいの客がいたが、アナウンスに誰一人動揺する気配はなかった。私の女房など「お父さん、残念だよねえ。メキシコはなんといってもアカプリコが見所なんだってよ・・・」と、インフルエンザなど、まるで人ごと。


ボウリング1      ボウリング2
★船内でボーリング★

 
 その前日、船はメキシコ最初の訪問地に寄港、お客は上陸して朝から夕方までバスで観光。農村でレンガ作りを体験したり、バナナ園やサボテン畑を見学してタコスも食べた。もちろん、この国で新型のインフルエンザが発生していることなど知るよしもない。でも、そのインフルエンザの最前線にいたことは確かだし、翌朝とはいえ、インフルエンザ発生のニュースに最初に接したのも私達。たまたまとは言え、恐らく、一番身近にいた日本人は私達夫婦だったかもしれない。サンデゴはアメリカといってもメキシコのすぐ隣だが、みんな新型のインフルエンザなど、どこ吹く風。まったくの平静を保っていた。


レンガづくり2    タコスづくり
レンガづくり   と   タコス屋さん


 一方ことある度に付和雷同する私達日本人。日本は平静でいるはずがないと思っていたが、案の定、帰国した成田空港は厳戒態勢だった。税関といい、警備や売店に至るまで空港関係者はみんなマスク姿。それも顔を覆うような大きなマスクで、白衣姿の職員もいた。「これでは只で空港を出ることは出来まい」。ところが私達はノーチェックで空港の外へ。


空港  


 当時こんなことを言ったら国賊扱いされただろうが、空港での水際作戦には完全の盲点が。私達のパスポートはハワイに行ってハワイから帰って来たことになっていたのである。約1ヵ月の旅の大半は船の旅。何も私達の故意ではないのだが、結果的にからくりはこうだ。私達はハワイからアメリカの最南端フロリダ州マイアミに飛んで船に乗り、大西洋へ。キューバ沖を通り、カリブ海から最初の訪問国コロンビアに。さらにパナマ運河を渡ると太平洋。エクアドル、コスタリカ、メキシコなど中南米諸国に上陸するのだが、その出入国手続きは全て乗船時に作ったIDカード。パスポートではないのだ。ハワイからマイアミ、帰りのロス・アンゼルスからハワイの空路も国内線。米国内を移動しただけなのだ。だから成田空港の税関はもちろん、検疫当局も知る良しもない。物々しい検疫の水際作戦も肝心な所で空回り。「お前達が名乗り出ろって?」。お客側は普通そんなことをしませんよ。

船内    船内2


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付和雷同

人々

 付和雷同。私達日本人にこれほどぴったりする言葉はない。あの大騒ぎはどこに行ったのだろう。新型インフルエンザ騒ぎだ。そんなことを考えていたら、数日前の山梨日日新聞に、こんな見出しの記事が載った。




 「新型インフルほぼ終息 週平均患者数 5カ月ぶりに1人台」




 山梨県が発表した定点医療機関からの新型インフルエンザ患者報告に基づいた県厚生部の判断。新聞によると、全国の平均患者数(前週)も同じ1人台(1・76人)で、4週連続して減少しているのだという。普通のインフルエンザならそんな数ではあるまい。



地図


 この新型インフルエンザの≪震源地≫は遠くメキシコ。最初は鳥ならぬ豚を媒体にしたことから豚インフルエンザと言った。それによって、メキシコでの最初の死者は確か6人。ぼつぼつ1年前の4月28日頃だった。日本政府もマスコミも、これに敏感に反応した。政府は空港や海の港など、いわゆる水際での厳戒態勢を敷く一方、マスコミを通じてその予防を国民に求めた。


メキシコ  


 新聞やテレビは連日、大々的にこのニュースを伝えた。只でも付和雷同型の日本人がこれに反応しないはずがない。人々はマスクを買いあさり、あっという間に薬局やスーパーからマスクが消えた。連日の報道の中で登場してくる評論家先生や学者先生は、明日にも日本中が感染の坩堝と化しかねないようなトーンで解説するものだから、むしろ反応しない方がおかしい。今考えれば笑い話のような水や食料の備蓄に走った人もいた。




 たまたまこの時期、子供たちの修学旅行シーズン。全国の小、中、高校は旅行を中止、企業の中には、就業の一時閉鎖をするところまで現れた。当然のことながら経済活動にもシワ寄せしてしまったのである。各地の観光地や経済界から反発を食らった政府や結果的にそのしり馬に乗ったマスコミは、今度は手の平を返したように火消し役に。それまでの騒ぎがウソのよう。新聞やテレビからは「新型インフルエンザ」の大見出しや電波のニュースが影を潜めたのである。


旅行


 昨日と今日。一晩明けただけでまるで違った。「いったい、それまでの騒ぎは何だったの?」。みんなが、そう思ったに違いない。インフルエンザは空気伝染するものだから用心することに超したことはない。しかし、その取り扱い方を一歩間違えたら思わぬ混乱や場合によっては、とんでもないパニックを招くことは、かつての石油危機の時のトイレットペーパー騒ぎで立証済みだ。そんなことは政府もメディアもお構いなし。




 マスコミの影響力の大きさ、怖さを思い知った。「(情報を流さないことによって)あとで責任を問われたら・・」「騒ぎの渦中で(修学旅行など)ことを進めて、万一のことがあったら私達の責任は・・」。役所や学校、企業の責任者にそんな≪事なかれ主義≫があったことは間違いない。マスコミだって同じ。報道合戦と言う、いわば宿命的な競争関係がそれに拍車をかけた。大山鳴動してネズミ一匹。踊らせた方が悪いのか、踊った方がバカなのか・・・。どっちにしても付和雷同に違いはない。今はそのことすら、みんなが忘れた。




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のんびり屋のせっかち屋

 「俺はいったいどんな性格の人間なのだ」と自問したら「ムチウチ症のあいつ、頭を打ったせいで、とうとうオツムがヘンになっちまった」と言うに違いない。でも私は、こんなことを思うことがある。「俺は短気なのか気長なのか」「鈍感なのか敏感なのか」「せっかちなのか、のろまなのか」「几帳面なのか、無精者なのか」「けちん坊なのか、それとも・・・」。ただ、これだけは分かっている。「バカなのか利口なのか」だ。自覚出来るだけはいいのだろう。しかし、このことを除けば、自分でもそれが分からないことが多い。


道路


 「お父さんは車に乗ると、まるで別人のようになりますね。何もそんなに急がなくてもいいじゃあありませんか。そんなに時間が変わるわけでもないのに・・・。いつもは、のんびり、のほほ~んとしているのに・・・」




 「おいおい、のほほ~んはないだろう」




 一緒に車に乗っている時の女房とのやり取りだ。サラリーマン時代は女房と一緒に車で出歩くことなどほとんどなかったのだが、今では私のプライベイトの用事を除けば、ほとんど一緒。それも運転は女房任せ。こと、運転にかけては女房の方が上手と思っているからだ。今では出かける時、黙っていても女房がハンドルを握る


車


 私は車をノロノロ運転するのが大嫌い。後続車にも迷惑をかけるからだ。場合によってはノロノロ運転が原因で事故を招くケースだってある。山梨市から甲府に向かう約20㌔間のざっと4分の1の区間に片側1車線の自動車専用道路が出来た。ほぼ直線。視界もいい。制限速度は60㌔。この道路を60㌔ならまだしも50㌔、40㌔で走る車が目立つのだ。当然、後続車は数珠繋ぎ。もちろん前には車はいない。1車線だから追い越しようもない。


道路2


 それも通勤時間帯だ。腹が立つ。女房は「そんなに腹を立てることないじゃあない」と言うのだが、男達にはその先に仕事が待っているのだ。後ろからは「ブー、ブー」クラクションの音が。やっぱりイライラするのだろう。しかし、ノロノロ車両は、そんなブーイングもどこ吹く風。人の事など完全に無視だ。わが道を行くのである。それがまた腹が立つのだ。臨機応変。「この無法者め」とお叱りを受けるかもしれないが、状況によってスピード規制への対処だって固いことを言わず弾力的であってもいいじゃないか、と思うのだが・・・。


道路3


 かつて中央自動車道の山梨県区間が開通する間際に、その規制速度を巡って道路を造った日本道路公団と速度規制値を定める公安委員会との間で論争が起きた。特にトンネル内の速度規制だ。道路公団によると、道路には車のスピードに耐えうる「設計速度」というのがある。所要時間の短縮、快適なドライブを主張する公団と安全性、事故防止を考える公安委員会の論争だった。もちろん、この論争の軍配は公安委員会に。安全と事故防止を優先するに決まっている。普段、のろまのくせに時として、せっかちになる自分とオーバーラップしながら女房が言う「そんなに急がなくても・・」の言葉をやむなく飲み込んだ。ノロマは嫌い。せっかちな性分は麻雀でも出てしまうのだ。だから、時にチョンボもする。




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振り子とデジタル

時計

 「あの人は振り子のような人だ」と言うと、いつも几帳面な行動をする人を言い、「振り子現象」と言うと、一方に偏った力を元に戻す力学を言う。右傾化すれば左に戻そうとする。車に乗っていてカーブを曲がる時、一方で反対側にも力が働く。いわゆる遠心力の力学もこれと同じだろう。人は、この振り子をさまざまな所で例えに使う。




 振り子は元々、時計の重要な一部であったことは言うまでもない。ところが、この振り子時計、最近、トンと見かけなくなった。我が家にもひと頃までは、振り子の柱時計がいくつかあった。それぞれが気ままに「ペーン、ペーん」と時を刻むのである。折に触れ、ねじを巻くのだが、それぞれの時計に癖があるから、遅れたり、進んだり。刻む時もまちまちなのだ。みんな、のんびりしたもので、そんな誤差も気にも留めなかった。




 アナログからデジタルへ。真っ先に時代の波のあおりを食ったのが、この振り子時計かもしれない。柱に掛けた、いわゆる柱時計も壁掛けのデジタル時計に。振り子の柱時計は今やアンティーク家具になった。それを歌にしたものや、決まった時間に扉を開けて時を告げたハト時計も、みんなノスタルジックな世界に追いやられた。


デジタル時計


 デジタル化はどんどん進んで、いつの間にか電子時計が。一分、一秒狂わないのだ。仮に狂いが生じても、何時か知らぬ間に修正されているのである。電波でコントロールされているのだろうが、アナログ人間の私なんかに、その理屈が分かるはずがない。そんなことを考えると、ひと頃、流行った漫才のギャグではないが「夜も眠れなくなる」。


 


 アナログの柱時計が姿を消す一方で、そのデジタル化は私達の身の回りに新しいタイプの時計を氾濫させた。腕時計や壁掛け時計、置時計、目覚まし時計は当たり前。いつもポケットに持ち歩くケイタイにも付いているし、電子炊飯器やシステムキッチン、風呂場やトイレのコントローラーにも。テレビを点ければ、ここにもデジタル表示されている。


ガス


 一歩外に出ても街頭に、ビルの上に。バス停や駅のホームはむろんのことだ。マイカーにだって・・・。今や腕時計など必要ないくらいだ。でもこれが不思議。腕時計がないとなんとなく落ち着かないし、不安なのだ。習慣とは恐ろしい。我が家の中に限って時計の数(個数・箇所)を数えてみたら、ざっと20を超えていた。まさに時計の氾濫である。


 


 そのルーツを思い起こしてみたら、壁掛け時計や置時計の多くは結婚式や何かの催しの記念品。裏側には往年の新郎新婦の名前が。その新郎新婦は子供さんをもうけ、今では立派なオジサン、オバサンに。時はこんな所にも刻んでいた。


掛け時計


 デジタル時計にも致命的な欠点がある。アナログの柱時計にネジ回しが欠かせないと同じように、電池がなくなれば、グーの音も出ない。デジタルだってオールマイティーではない証だ。それに風呂場やトイレなど、いわばどっちでもいい所に付いている時計は、すぐに狂う。とにかく、デジタルの時計が氾濫する一方で、案外、時間が守れないのが人間。私の田舎ばかりかもしれないが、会合で時間が守られたためしがない。デジタル化がどんどん進んでも人間は、それに付いていけないでいるのだろうか。




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健常者と障害者

鈴木徹


 耳が聞こえ、そこそこに目も見える。二本の手と足も付いている。自分では、まあ、ありふれた程度の思考力も持ち合わせていると思っている。さてこれだけで健常者といえるだろうか。ある講演を聞かせていただきながら、ふと、こんなことを考えた。健常な人間なんてこの世にいないのでは・・・。人間、大なり小なり、みんな障害者ではないか、と思った。目には見えない心の障害だって立派な障害者。我がまま者や変人だってそうだ。




 そんなことを考えさせられたのは山梨県人権擁護委員甲府地区協議会が開いた研修会だった。講演者は義足のハイジャンパーとして国の内外で活躍しているアスリート・鈴木徹氏(山梨市)。2年前の北京パラリンピックでも日本代表を務めた。鈴木さんは中学、高校とハンドボール部に所属。高校時代は山梨県代表の一員として国体にも出場。3位入賞も果たしている。いわば山梨県高校ハンドボール界のエース的な存在だった。当然のことのように筑波大学(体育専門学群)への推薦入学が決まった。


鈴木徹氏


 しかし、入学間際に起こした交通事故がこの人の運命を変えた。膝下11cmを残して右足を切断してしまったのである。でもへこたれなかった。1年間、大学を休学してリハビリに専念。復学後は義足のハイジャンパーとして走り高跳びに挑んだ。それから3ヶ月。シドニーパラリンピックの参加基準である1m73㎝をクリア、日本人初の走り高跳び選手として同大会への出場を果たした。




 このシドニー大会はむろん、続くアテネ、北京のパラリンピックでも連続入賞。2006年のジャパンパラリンピックでは2m00をクリアして義足の選手としては世界で2人目の2mジャンパーとなった。2007年のIWAS世界選手権では堂々の金メダルを獲得するのである。


ハイジャンパー


 「障害を乗り越えて」と題した講演の中で、鈴木さんはズボンの裾をまくって自らの義足を見せ、足を失ったショックや義肢装具士との出会いとリハビリ、ハンドボールから走り高跳びへの転換、世界の障害者選手との交流など自らが乗り越えてきた≪障害の足跡≫を約1時間にわたって話した。ややもすると挫折しかねない鈴木さんを支え、世界のアスリートにしたのは、紛れもなく強靭とも言える精神力から生まれた≪夢≫と、それを応援してくれた周囲の人の≪支え≫だった。それが鈴木さんの講演のキーワードでもあった。


鈴木徹講演会


 子供の頃はどもり症のコンプレックスを背負った暗い性格の子だったという。しかし、スポーツ(ハンドボール)が、そのコンプレックスをはねのけ、交通事故で片足を失ったことが未知へのチャレンジに繋がった。「私は周りがバリアフリーでなくていいと思っている」と言外に障害者自身、甘えからの脱却が大切と説き、障害者と健常者の差別を戒めた。


 


 「目の不自由な方は健常な人の何倍もの聴力を持つようになります。私の場合を例にすれば、片足がなくても100mを16秒で十分走ります。少なくともここにおいでの皆さんより早いでしょう」




 健常者とは何か、障害者とは何か。鈴木さんの話を聞いて改めて考えさせられた。

人権イメージキャラクター

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雛飾りと今

雛人形


 今にして思えば寒い、寒いと思っていたのも、つかの間。いつの間にか寒さも緩んだ。日本中が、世界中が沸いたバンクーバーでの冬季五輪が済んで、一年中で最も短い2月が終わった。そしてやって来たのが桃の節句。我が家でも毎年の事ながら女房と娘を中心に、お雛様を飾った。年に一度、箱から出して飾り付けるのだが、この行事は何年経っても感慨深く、色あせない。


花


 一人娘が生まれて39年。年に一度、欠かさず飾り続けてきた。昭和45年10月23日。娘の誕生日である。お雛様は、そんな孫娘の誕生を喜んだ女房の両親が大枚をはたいて買ってくれたものだ。7段飾りの立派なもの。もう40年近く経つのだが、少しも痛んでいない。何時見ても見事な表情の内裏様を頂点に、朱の毛氈の上に並ぶ7段飾りは座敷の空間に似合うし、見ていると心がなごむ。その一方で「我が娘もこんな歳になっちまったか・・・」と、思ったり、自らの歳を省みて一抹の寂しさを覚えないでもない。


雛人形2


 それを贈ってくれた女房の両親、つまり義父母も、自分の事のように喜んだ私の親父もとっくにこの世を去った。振り返ってみれば、その義父母も親父も今の私と、うっつかっつの歳だった。目に入れても痛くないほどに可愛がった孫娘の成長や私達を天国でどう見ているのだろうか。とにかく時の経つのは早い。当時住んでいた甲府の家に初めてこの雛飾りを飾った39年前がついこの間のような気がする。


雛人形3


 桃の節句の起源は遠く平安時代に遡る。モノの本によれば、その頃、わが国には5つの節句、つまり「人日」「上巳」「端午」「七夕」「重陽」があった。貴族の間では、それぞれの季節の節目に身の穢れを祓う大切な行事だった。その一つ「上巳」(じょうし)の節句が後に桃の節句になったという。



雛人形4


 平安時代、上巳の節句の日には、人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で身体の穢れを祓った。厄除けをし、健康を祈ったのである。この慣わしが、いつしか宮中の紙の着せ替え人形を川に流す、いわゆる「流し雛」に発展していくのである。桃の節句が3月3日に定着したのは室町時代。紙の雛はやがて豪華なお雛様に。そんなお祝い行事は宮中から武家屋敷、裕福な商家や名主の家庭へと広がり、現在のような大衆的な雛祭りとして庶民の間に定着した。単なるお祭り行事ではなく、お七夜やお宮参りのように女の赤ちゃんのすこやかな成長を願う行事であり、お雛様は、その災い厄除けの守り神であった。


流し雛  


 おふくろは94歳になった。野山で薬草を摘む。私達が幼い頃、そんな桃の節句のいわれを知ってか知らずか、なけなしの食材を工夫してお重を作ってくれた。子供達はそれを持って野や山、河原に遊んだ。ゲーム機やケイタイ、ましてやパソコンやインターネットもない時代、普段と違うお重を食べ、野や山で遊ぶのは楽しいひと時だった。あと2ヶ月経つと今度は男の子の端午の節句。鯉のぼりや山梨県地方では武者のぼりが立つ。しかし、そんな伝統的な二つの節句行事はだんだん風化しつつある。親や大人の愛、そんな親が作ってくれたささやかなお重を持って野に山に遊ぶ。そんなゆとりが今の子供達にも欲しい。




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プロフィール

やまびこ

Author:やまびこ
 悠々自適とは行きませんが、職場を離れた後は農業見習いで頑張っています。傍ら、人権擁護委員の活動やロータリー、ユネスコの活動などボランティアも。農業は見習いとはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定も。でも高い所が怖くなりました。
 ブログは身近に見たもの、感じたものをエッセイ風に綴っています。

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