油と農家の今昔
ゴマ、菜種、大豆、ヒマ・・・といえば共通点はなんだ。クイズの出題ではないが、答えは油である。私が子供の頃、山梨のこの付近の農家では、ゴマや菜種を作った。もちろん、食用油にするためで、ヒマは薬用だったように思う。「ひまし油」といって漢方の下剤のように使ったりもした。葡萄、桃、サクランボなど現在のような果樹地帯になる前の事。主力の米麦、養蚕の農業の傍らで、どの農家も大根や、タマネギ、人参などの野菜ばかりでなく、食用の油まで自らで作ったのである。味噌、醤油は当たり前。
いわゆる自給自足型の農業形態だった。屋敷の片隅にはニワトリ小屋やウサギ小屋。ヤギ小屋もあった。池には鯉が・・・。それがそのまま卵や肉、乳、つまり私達の蛋白源になった。古くなったニワトリは≪潰して≫肉を食べるのだが、この時、おふくろは「骨団子」といって、ニワトリの骨まで子供たちに食べさせた。骨を潰して団子状に。カルシュームの摂取を考えたのである。一方、牛乳ではなく山羊乳。私なんかヤギの乳で育ったようなものだ。もちろん乳搾りは自分たちで。何人もの兄弟が日替わりの当番制で搾った。
その頃の我が家の、また、この付近の農家の食料自給率は100%に近かっただろう。過去のデータからみてもわが国全体の食料自給率は70%をはるかに上回っていた。それが今はどうだ。政府統計によれば、40%そこそこに落ち込んでいるのである。田舎のこの付近では食料ばかりでなく、暖房や調理のための炭まで焼いた。炭焼きをしないまでも、炬燵の火はかまどの消し炭を使った。全てに貧しさの中で育まれた≪生活の知恵≫があった。
食料需給率を落としたのは経済活動のさまざまな歯車にほかならない。それに人間の飽くなき合理化への欲求が拍車を掛けた。慣れないソロバンをはじいた農家は利益を追求するあまりに集約農業に走った。大根、白菜、なす、キュウリなど野菜はおろか、主食の米まで作ることを放棄したのである。例えば果樹農家は、主力の桃や葡萄、サクランボの生産性を上げるために、米も野菜もスーパーに求めた。ましてや手間がかかるゴマや菜種からの油の製造などするはずがない。
平野部での大規模農業はともかく、圃場の構造が変わらない地方の農家も、確かに生産性を向上させた。しかし≪蔵が建つ≫ほどの利益に結びついたかというと、とんでもない話。そこで得たお金は、外国からの米麦や野菜、肉に姿を変えるだけに過ぎない。一方で、大規模であろうが、なかろうが、そこに残るのは農機具の減価償却と残留農薬。農機具を例えて、口の悪い人は「機会貧乏」と言う。言い得て妙である。さらに、こうした農家を不安に陥れているのが自らの老齢化と後継者不足だ。一見合理的に見える集約型農業の内側で、さまざまな現実の矛盾に気付きながらも、そこからの脱出はもはや困難。
そんな農家をよそに、非農家の人達は野菜作りや炭焼きを。只で貸してくれもする農地を上手に使っての野菜作り、果樹作りが年々盛んになっている。いわゆる「一坪農園」。何よりも農薬漬けの農家を尻目に、こちらは無農薬の野菜を作ってニンマリ。炭焼きだって今や趣味と実益。旅した伊豆大島で久しぶりに炭焼き小屋を見てそんなことを思った。
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