野良猫の手術
ある時、玄関先に鳥かごを頑固に、しかも大きく作り変えたような小奇麗な篭が。
「コレ、なんだ?」
「猫を入れる篭よ。鳥篭じゃあないわよ」
「へえ~、こんなものあるんだ・・・」
蛇の道は蛇。女房がご近所の愛猫家からお借りしてきたのだという。
「ところで、こんなもの、いったい何に使うんだ?」
「病院に連れて行くのよ」
「病院?」
「避妊手術を受けるのよ」
そういえば、我が家に住みついた野良君。ちょっと≪美人≫で、案外モテルのである。近所の≪男友達≫が入れ替わり立ち代りやって来る。女房は先回りして避妊手術を思い立ったのだ。普段、物事にそれほど斟酌しない、うちのかみさんだが、女はすごい。男なら考えそうもないことを咄嗟に思いつき、それをすぐに行動に移すのだ。6㌔ぐらい離れた市内の動物病院へ。入院させて来たという。2泊3日。手術代は入院費用も含めて数万円がかかったという。
「たかが野良猫の避妊手術。そんなにお金がかかるのか・・・?」
「仕方がないじゃないの。人間と違って保険が利かないんですもの」
かみさんは完全に野良も家族の一員として考えている。
「俺にも相談して病院に行けよ」。心の内ではそう思った。お金のことではない。「こいつの二世はもう見ることは出来ない」と考えたら無性に寂しくなった。「こんな野良・・・」と口では言いながらも、家族の一員として捉えている自分が滑稽にも思った。
「お父さん、猫でも犬でもいいから飼おうよ」。随分前から、かみさんにせがまれた。娘も嫁入りする前、「私は可愛い犬がいいなあ」と母親と共同戦線を張ったりもした。しかし、頑として聞き入れなかった。
これには、それなりの訳がある。定かではないが、小学校2~3年の頃だった。飼い犬の死に遭遇して幼心に大きなショックを受けた思い出があるからだ。老衰だった。昭和20年代、山梨県の片田舎のこの辺りでは、どこの家でもと言っていいほど犬を飼っていた。今のような、いわゆるペットとしてではない。番犬である。ペットなど、時代と言うより経済が許さなかった。番犬と言ってもみんなで可愛がった。
屋外に犬小屋を作ってやり、鎖で繋いだ。番犬とは言え今のペットと同じように家族の一員であることに変わりはなかった。私には姉がいるが、3人の男兄弟の頭だった。老衰とは言え≪家族の一員≫の死は衝撃だった。まだこの辺りは今のような果樹地帯ではなく、田圃や桑畑だった。そこに弟達と一緒に≪墓≫を作り、懇ろに弔ったことを覚えている。線香を手向け、ちっちゃな手を合わせた。もうこんな思いはしたくなかったのだ。
ブログランキングに参加中です。
↓この下の「甲信越情報」をクリック いただけると励みになります。


ありがとうございました!
スポンサーサイト