座敷の雛飾り(再)
「灯りを つけましょ ぼんぼりに・・・」
この間、節分、立春を過ぎたと思ったら、もう雛祭り。今年も女房が奥座敷に七段飾りのお雛様を飾った。一人娘が生まれた時、義父母、つまり女房の親から贈られたものだ。もう40年も前のことだ。でも少しも痛んでいない。サラリーマン現役時代、甲府に住んでいた時分は家が狭かったから、そこで飾ることもママならなかったが、今はスペースに事欠かない。こんな時は田舎家はいい。心なしか一つ一つのお雛様ものびのび、生き生きしているように見えるから不思議だ。
娘が生まれたのは昭和45年10月。この年は作家・三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で壮絶な自決を図った年。このショッキングな事件は娘の誕生の一ヵ月ちょっと後だったので鮮明に覚えている。私が28歳になろうとしている時だった。今の娘の年よりずっと若かったことになる。
40年という歳月。あっという間だった。光陰矢のごとし。雛飾りを眺めながら、しみじみとこの言葉を実感した。ふと、周りを見れば、この雛飾りを贈ってくれた女房の両親と私の親父もとっくに他界。唯一残るおふくろも95歳になって自力での生活は困難に。病院にお世話になっている。認知症の症状まで出てきた。主役の娘ばかりではなく、私たちにもこの雛飾りにはさまざまな思い出がいっぱい詰まっているのだ。
田舎でも住宅構造は、どんどん変わり、合理的で、コンパクトな間取りになったので雛飾り、特に大型の雛壇飾りはしにくくなった。だからなのか、訪ねて来る近所の人や女房も含めての友人、知人はみんな自分の事のように大喜びするのだ。そこにはそれぞれの子ども達や自らの若かりし頃の思い出をオーバーラップしているのだろう。その一つ一つの顔は歳をとっても純真そのものである。
その一人が言った。
「俺のところは男の子。毎年、端午の節句には鯉のぼりと武者のぼりを立てるんです。のぼりを立てるための竹竿が痛んでしまったので、知人にお願いして竹やぶから太い立派な竹を何本か頂いて来た。準備は万端。大きな鯉のぼりが今年も五月の風に泳ぎ、それを上回る武者のぼりがはためきますよ」
自分の事のように嬉しそうだった。他の地方のことは分からないが、山梨では端午の節句に鯉のぼりと共に武者のぼりを立てる。文字通り武者絵をあしらったのぼりで、その丈は10m近くもある大きなものだ。鯉のぼりだって大きい。だから、それを支える竹竿だって、よほど太く、頑丈なものでなくてはダメ。市販の金属製のものだと風の圧力に負けてしまうのだそうだ。杉などの木を使う人もいるが、弾力のある竹の方がいいという。
女の子にせよ、男の子にせよ、子どもの健やかな成長を願わない親はいまい。桃の節句、それを追っかけるようにやってくる端午の節句。そんな機会に大人たちも自らの子どもの頃を懐かしんでみるのもいい。しかし、我が家もそうだが、一人っ子が気になる。私の兄弟は4人だった。すでに結婚した甥、姪達には「子どもはたくさんがいい」と言っている。自分が歳を取ったらよく分かる。
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