毒舌

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 「そんな、つまらん質問するなよ」


 石原慎太郎は東京都知事の時代、記者会見で、よく、こんな言葉を吐いた。むろん、市井の私たちは、そんな光景を知るのはテレビしかない。それを受け止める記者さん達は、さておいて、テレビの前の人達の受け止め方は、さまざまだろう。「乱暴だ」と言う人もいれば「いいじゃないの」「小気味いい」と受け止める人もいるかも知れない。




 ただ一つ言えるのは、テレビカメラを前にした記者会見で、こんな“毒舌”を吐く政治家はあまたいない。「吐く」というより「吐ける」といった方がいい。時に、小気味がいい、と感ずることもあるのだ。報道だから、取材記者だから何を言ってもいい、と言う理屈は少なくともないはずだ。百歩譲って、唐突だったり、失礼な質問をぶつけることによって相手の本音や人間性を引き出す狙いがあったとしても、一定の節度とか礼儀があることも、また確かだろう。




 「首が飛ぶ」などと言ったら、少々、乱暴だが、閣僚などが辞任に追い込まれる原因の一つに「失言」がある。むろん、ご本人の不用意な発言が、その災いの源だが、一面、報道側の理不尽と思える、いわゆる「言葉狩り」に遭ったと言ってもいいケースもないでもない。政治家、特に閣僚の失脚パターンは、多くが「金」か、この「失言」。むしろ、新聞やテレビを賑わすのは失言問題の方が多いように見える。


国会議事堂


 確かに政治家は言葉が命。誰が考えても、その通りだろう。でも政治家だって人の子。うっかり、不用意なことが口を突いて出てしまうこともあるだろう。私のようなお人好しの田舎者は、そんな同情的な受け止め方をしてしまうこともあるのだ。マスコミの「言葉狩り」や政治家同士、党利党略の具にしているように見えるからである。ジョークと失言は違うが、日本人は欧米人と違ってジョークが通じない国民だと言われる。そもそも日本人は堅物なのだろう。




 政治家が失脚に導かれる要因は総じてスキャンダル。その多くが週刊誌のすっぱ抜き。それを新聞やテレビが上塗り、野党は、ここぞとばかり国会論議の中で問題視するパターンだ。私達、市井の野次馬達は、それを茶の間で面白おかしく見ている。そうかと言って痛快とは決して思えない。




 石原慎太郎は田中角栄をモデルにした小説「天才」(幻冬舎刊)の中で、田中と神楽坂芸者の関係に留まらず、いわゆる“隠し子”の存在まで書いている。田中は、今なら確実に週刊誌の格好の餌食になっていただろうし、その“スキャンダル”は、ロッキード事件以前に田中の首をぶっ飛ばしていたに違いない。




 石原は政治家を退いて、本来の小説家としての道を歩んでいるのだろう。ただ、若き「青嵐会」の時代はともかく、東京都知事時代、一度も、あの「言葉狩り」に遭わなかったのが、ある意味では不思議。“毒舌”を当たり前にしてしまったのが功を奏したのか。ガード一辺倒の政治家より、石原が「天才」の中で言うように豪腕な政治家が必要かも。(敬称略)




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「費用対効果」の矛盾

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 「今のままで自然成長して行けば、大都市は機能マヒしてしまうだろう。故に生産手段も含めて企業を地方に分散しなければならない。そのために新幹線を日本中に走らせ、どの県にも県都の近くに飛行場を作り、国民の移動の時間と距離を短縮させる。それによって総生産量が向上し、利益が増大すれば、これから多分、進むであろう国民の高齢化にも対応できる社会保障のための予算も…(後略)」





 石原慎太郎が田中角栄元総理をモデルに書いた一人称小説「天才」(幻冬舎刊)の中の一節。田中の言葉だ。いわゆる「日本列島改造論」の根底を成す部分である。田中の「日本列島改造論」は、もう40年も前のこと。田中が言うように、我が国の都市機能は、もはやパンクする寸前。その一方で、地方は疲弊し、その落差は増大するばかりだ。田中が同改造論で掲げた高速道路網や新幹線は、地方と都市の距離を短くした。先頃開通した北陸新幹線や本州と北海道を結んだ新幹線は、地方の人達に大きな夢と期待を与えたことは間違いない。




 当時、「人間ブルドーザー」と揶揄され、大方の国民に支持されようとした田中とその「日本列島改造論」は、あのロッキード事件による自らの失脚を境に潰(つい)えた。田中の言う「地方から田舎をなくす」構想は、少なくとも泡と消えたのである。ただ、その頃描かれ、各地で続けられて来た高速道路の整備や北陸新幹線などは、田中政治が仕掛けた産物であることもまた事実だ。




 時代が変わって「公共事業は悪」とでも言いかねない風潮さえ生まれた。ある政権下では「事業仕分け」などと言う付け焼き刃のパフォーマンスまでも演じて見せた。「脱ダム宣言」という響きのいいフレーズで、見え見えの人気取り政策?を掲げた落下傘知事もいた。確かにひと頃、市町村が競った「箱物行政」には、大方が首を傾げたが、地方のインフラ整備、洪水対策や下流域の飲料水の恒久的な確保など長期的な視点に立ったダム建設は必要不可欠。脱ダムのツケは各地で起こる河川の氾濫に証明され、将来もツケを背負うに違いない。治山治水は戦国の昔から普遍の政治哲学とされて来たはずだ。



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 政治家や評論家、行政官は、公共事業の計画や、その予算付けに「費用対効果」という言葉を使う。うまい言葉で、いかにも科学的、合理的に聞こえる。しかし、この言葉ほど矛盾をはらんだ言葉はない。費用対効果至上主義で公共の事業を進めたら、資本の投下は人口の多い都市部に集中するに決まっている。その一方で、地方は疲弊して行く。地方の過疎化は、裏腹に都市部の人口増大を招き、都市機能を低下させるという悪循環を招くのだ。




 地方では、道路網の整備の遅れなんかは序の口。未だに下水道すら整備されていない地域がいっぱい。「卵が先か、鶏が先か」。現時点の費用対効果を言うのではなく、将来を見据えた費用対効果を考えた資本の投下をしないと地方は、絶対に生き返らない、と考えるのは私だけだろうか。「天才」を書いた石原は元東京都知事。口が裂けても地方への資本投下による地方創生など口にすまい。

 一方、本当に地方の実態を代弁をしなければならないはずの地方選出の先生達は、何故か口を閉ざしたまま。選挙で「票」を集めなければバッジを付けることが出来ない政治家。「票」の少ない過疎の地域は勢い二の次、三の次?そして普段は東京に住み、選挙が近づくと地方に…。実感だって沸きっこないよね。(敬称略、次回に続く)




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待機児童?

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 東京など都市部では保育園や幼稚園に入れない、いわゆる待機児童が増大しているのだという。それが喫緊の社会問題のように騒がれ、国会でも議論された。そうかと思えば、幼稚園(保育園)を作ろうとしたら、周辺住民が猛反対。計画は頓挫してしまったという。言うまでもなく、その建設は待機児童の解消策の一環であることに違いはない。




 新聞やテレビの報道によれば、反対派住民の言い分は「閑静な住宅街に保育園が出来たら、うるさいばかりか送迎の車で周辺道路が混雑する」と言うのだ。建設者側は反対派の言い分を汲んで、子供達の声が周囲に漏れないように遮音壁を設けることを約束したが、それでもダメだという。




 「へえ~。子供の声がうるさい?」


 日本人はみんな、今の自分だけしか考えない人間に成り下がってしまったのか…。私のように山梨の田舎に住む人間にとっては、にわかには信じることが出来ない。私達が暮らす、この地域の小学校は「岩手(いわで)小学校」というのだが、今年の新入学児童は、たったの6人。来年は、これを下回るという。因みに全校の児童数は36人。私達が子供の頃の1クラスにも満たない数なのである。むろん、この地域にも市立の保育園があるのだが、園児の数は推して知るべしだ。




 待機児童どころか、地方では子供自体がいなくなってしまうのである。若者達が田舎を見限って都市部へ、都市部へと流失してしまうからに他ならない。そのあおりは小学校ばかりでなく、幼稚園や保育園にも。県内では経営難から存続を断念、閉鎖に追い込まれたところもある。その連鎖は小・中学校や高校にも及ぼうとしているのだ。「わんぱくでもいい。子供達の元気な声を聞きたい」。地域の人達の率直な気持ちだ。どこか違うでしょう。


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 待機児童騒ぎは、深刻というか、たわいもないというか、ツイッターに書き込まれた一言がきっかけだという。そんな“パフォーマンス”が大好き?なマスコミ。それにすぐ乗る政治家。その国会論議を、また大々的に報ずるマスコミ。呼応するようにプラカードを掲げてデモ行進するお母さん達。それをまた報道する。面白い輪廻だ。この現象は他にも。




 熱病にも似ていて、熱が冷めるとマスコミも政治家も知らぬ顔。待機児童がなぜ起きるのか、地方に子供が少なくなって何故、幼稚園や保育園が潰れていくのか.そこには深刻、かつ構造的な問題があるのに、マスコミや政治家は、腰を据えて解決の方策を探ろうとしない。人口問題に留まらず、全ての社会構造に東京一極集中、都市集中の構造的な弊害があることは、誰だって分かっている。その構造をぶっ壊さなければ根本的な問題解決にはならない。田中角栄に惚れ込んで小説「天才」(幻冬舎刊)を書いた石原さん、そうだよね。




 確かに政府は地方創生を訴えている。でも地方で不自由を強いられたり、寂しい思いをさせられたりしている人達から見れば、口だけの絵空事にしか見えない。小説「天才」に描かれているような田中角栄が再び現れてこないと日本はダメなのか。あれほどみんなして叩いた田中政治。石原の“待望論”が私には頷ける。(敬称略、次回へ続く)




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「天才」と石原慎太郎

田中角栄


 幻冬舎出版の「天才」という本を読んだ。石原慎太郎が田中角栄をモデルに、彼になりきって、一人称で書いた小説だ。言うまでもなく石原は小説家であり、政治家。学生時代に「太陽の季節」で芥川賞を受賞、後に政治家となって運輸大臣や東京都知事も務めた。




 「太陽の季節」は映画化され、慎太郎は弟の石原裕次郎を銀幕に導いた。野球界の王貞治、長島茂雄と同じようにスーパースター・石原裕次郎を生み出すきっかけとなったのである。後に裕次郎の妻君になる北原三枝は、この映画に次いで制作された「狂った果実」がご縁だった。私なんか、そんな裕次郎の映画に魅せられ、学校をサボって見歩いた世代の一人。根っからの裕次郎ファンだったのである。




 一方、田中も言わずと知れた我が国の総理大臣経験者。最後は日本に激震を走らせたロッキード疑獄で、「宰相の犯罪」として法の裁きを受けながらも「闇将軍」と揶揄され、政治の裏舞台に君臨した。ロッキード事件は、もう40年も前の出来事だから、事件そのものを知らない世代も多いだろう。小説「天才」は、ロッキード事件を書いたものではない。政治家・田中角栄を、その生い立ちも含めて描いたものだ。




 「天才」を読んでいて「おやっ?」と思ったところが随所にある。その第一は石原が田中を極めて好意的に描いている点だ。石原は時の権力・田中政治と真っ向から対立した政策集団「青嵐会」の中心的な人物。自らも本の中で「田中に弓を引いた男」と書いている。当時、ことある度に繰り返した派閥抗争などという泥臭い政治力学ではなく、政治に対する考え方、言ってみれば政治哲学が全く違う二人なのだ。


石原慎太郎


 実は、この石原さんとは、何度かお目に掛かってお話もしたことがある。国会担当をしていた34,5歳の若造の時分だった。国会議事堂、と言うより衆議院第一議員会館と目と鼻の先に「十全ビル」というのがあって当時、青嵐会の座長をしていた山梨県選出の代議士・中尾栄一の私設事務所があった。そこが石原ら青嵐会メンバーのたまり場になっていたのである。むろん、石原も今より40歳も若い精悍然とした政治家であった。石原や中尾たち青嵐会の強者達は予算委員会であれ、どこであれ、真正面から田中政治に食いついた。国会に近い地の利のいい中尾の私設事務所は、その策略会議の場でもあったのだ。




 中尾の事務所の表札には「中尾」の「な」の字もなく、あるローカルCATV局の表札が架かっていた。そこには美人で、聡明な秘書さんがいて、青嵐会の強者達の世話もしていた。その秘書さんはある大学の経営紛争に巻き込まれた気の毒な人であった。ここでは、そんなことに触れない方がいい。兎に角、石原は精悍であるばかりか、貴公子然としていた。




 小説の「あとがき」が面白い。小説本体の田中一人称の書き方と違って、むろん、ここは石原の考えを綴っている。「面白い」と言ったのは、石原が小説の標題にしたように、田中を「天才」と位置づけ、「田中角栄のような政治家が今の世にこそ必要だ」と述べていることだ。「田中政治」の根幹は「日本列島改造論」に象徴される。高速道路網計画や新幹線構想を打ち出し、地方の公共事業推進を奨励した。このことも「あとがき」で書いているが、この「あとがき」が何と16ページにも及ぶ。そのタイトルは文字通り「長い後がき」。そこに綴られた石原の本音部分が、また面白く、興味深い。(敬称略、次回に続く)




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ICTとアナログ人間

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 インターネットばかりでなく、ラインやツイッターのようなSNS(Social Networking Service)などICTの世界は、私達アナログ時代の人間にとっては化け物に等しい。いくら頑張っても追いついていけないスピードで日々進化して行く。若者達は、その進化の波を、まるでサーフィンのように乗りこなす。大きな波に飲み込まれても、すぐに立ち上がり、新しい波に乗って行くのだ。かつてIT(情報技術)に代表された言葉は「C」(コミュニケーション)を入れてICTに。




 道具を使ったり、火を使うことを覚えて他の動物を凌駕、支配してきた人類は、地球どころか宇宙まで支配するような力となって進化し続けているのである。それを主導しているのがコンピュータを駆使したICTなのだ。人々の日常でケイタイやスマホはカメラと同じようにポケットに入り、それでも飽きたらずに腕時計形のものまで現れた。


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 ICTの進化は人間どもの生活に革命をもたらしている。便利を促す一方で、かつては考える事すらなかった犯罪まで生み出している。ICTを駆使した「おれ、おれ詐欺」、「振り込め詐欺」は日常茶飯事だし、情報の流失、搾取は地球規模で行われているのだ。安全保障に関わる国家機密だって危うくされる。そんな時代にあって、実際には人々のICTの受け止め方、受け入れ方は、極めてまちまちなのだ。あるケースを紹介してみよう。私は、ある政府行政機関の民間協力委員を委嘱されていて、3年ほど前、その委員達で構成する団体の「ICT推進本部長」なる役目を仰せつかったことがある。




 山梨県下で、その委員に委嘱されているのは218人。同推進本部は組織の情報の共有化はむろん、事務の合理化と省力化、さらには経費の削減を図るため、事務作業や情報の伝達を電子化しよう、というものだ。従来、会議の連絡や資料作りも全てが印刷物。それを処理するための作業を分担する委員の手間や苦労もバカにならないのである。個々に見ても月毎に義務付けられている職務執行結果報告書の提出も、ご多分にもれない。


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 「オジサン達、今更、何言ってんの?パソコンを使ってメール通信をすればいいし、会議の資料だって、めいめい印刷物にしなくたって、プロジェクターを使えばいいじゃない」



 お若い方々は、そう仰るかも知れない。そうはいかないから「推進本部」などと言ういかめしい名前の組織まで作って対処しなければならないのだ。なにしろ、この団体の委員の平均年齢は67歳を超す。委員の1クールは3年。委嘱には定年制があって75歳を過ぎると委嘱の更新をしないが、74歳で委嘱更新をする委員もいるので、現実的には77歳の人もいる。言ってみれば総じてアナログ人間の集まりなのである。



 「オレ、メール通信など出来ないよ。第一、パソコンなど使ったことがないし…」



 そこで「ICT推進本部」はどうしたか。NTTにお願いしてパソコン講座を開設してパソコンを覚えることから“作戦”が始まったのだ。なんとか形作るまでには時間と手間が。



 どんどん進化するICTの世界。それを当たり前のように受け入れ、便利を享受する人達。一方で、その波に乗れなかったり、拒否反応を示すアナログ世代。その溝は時間が埋める。




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孫の誕生日

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 「お父さん、ケーキを買ってくるわね」


 「そうだな」


 孫娘が3歳の誕生日を迎えた。私達夫婦を気遣ってか、週末にはやって来る娘と孫娘。娘達の住まいがある甲府からだと、私達が住む山梨市まで道路が空いていれば、車で30分と言えば来る事が出来る。




 丁度、孫娘の誕生日が週末に重なったため、女房は朝からソワソワ。言葉にこそ出さないが、私だって同じ。普段、お世辞にも腰が軽いとは言えない女房は、嬉しそうに街のケーキ屋さんに車を走らせた。


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 こじんまりしたケーキの上にはカラフルなローソクが3本。孫娘の名前は「京佳」というのだが、




 「京佳ちゃん、3歳になったんだよ」


 女房がニコニコしながら言うと、孫娘は


 「ハッピー バースデー トー ユー…」


 何処で覚えてきたのだろう。そこそこのリズムで歌うのである。それがまた可愛い。


 73歳と72歳。孫娘から見れば、私達夫婦は爺、婆。口を尖らせて、3本の小さなローソクを吹いて火を消す孫娘は、可愛らしい、と言う言葉以外に表現の仕様がない。


 
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 そんな孫娘を見ながら自らの3歳の頃を思い出した。と言っても、その頃の記憶は全くない。丁度、70年前。戦後も間もない頃だ。焼け野原になった東京などと違って田舎だから直接的な戦火は免れ、畑の野菜、供出を免れた米や麦も少しは、あったはずだ。しかし、食べ物にも事欠く時代。ケーキなどと言う言葉はむろん、誕生日を祝う余裕などあるはずがない。




 そんなことを考える一方で、「この子が私達の年齢になる頃の社会は、どうなっているのだろう」。ふと、そんなことを考えた。もちろん、そんなことが分かりっこない。どんな有能な科学者や未来学者だって見通すことは、出来はしまい。




 今、当たり前のようにポケットの中に入っている携帯やスマホだって少なくても30年前には無縁なものであった。子供達の間で当たり前のように使いこなされている電子ゲーム機器だって同じだ。当たり前のように家庭にある子供達の絵本も、中を開けば立体式。いやが上にも情操を駆り立てもする。インターネットが世界を一つにし、子供達にまで普及したのも、そんなに古い話ではない。




 さっきまで部屋の中を飛び回り、私達のベッドの上でトランポリンさながら大はしゃぎで遊んでいた孫娘が、「あれ?静かになったな」と思ったら、ママのタブレット端末をいじって遊んでいる。かつてとは比べものにならない高画質でアニメ漫画だって当たり前のように見ている。決して秀才でもなく、何処にでもいる子供の日常。インターネットはおろかパソコン操作にも四苦八苦する爺、婆は近々、この孫娘に追い越されるに違いない。




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パソコンの落とし穴

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 「足コメありがとう。しかし、随分と上から目線での物言いですねえ。年長者でも、使っていい言葉と、そうでない言葉がありますよ。お気をつけ下さい」




 私が自分のブログにおいで頂いた方に書かせていただいた、足あとコメントの返事だ。一瞬、ドキッとした。明らかに叱責だ。抗議でもある。何か失礼なことを書いてしまったのだろうか。いや、そんなことはない。初対面の方だから、失礼にならないようにコメントを書かせていただいたはずだ。

マウス



 すぐに私が書いたコメントを見てみた。結論から言おう。とんでもない変換ミスをしていたのである。恥をしのんで、お叱りを招いたコメントの内容を掲載してみる。




 「(前略)よくいらっしゃいました。私は山梨の田舎ですから、子どもの頃、大きなウサギ小屋を作って何匹ものウサギを飼ったことがあります。そんな時代を懐かしく思い起こしました。(中略)こちらからも、または意見しに伺います




 (前略)の部分では相手方のブログを読ませていただいた感想を、また(中略)の部分では山梨の近況を書かせていただいた。お叱りを頂いた「随分と上から目線での物言い」は、最後の部分だった。自分では「こちらからも、また(ブログを)拝見しに伺います」と書いたつもりが「こちらからも、または意見しに伺います」になってしまったのだ。




 つまり、変換ミスで「また拝見しに・・・」が「または意見しに・・・」に。ブログを拝見させて頂くのではなく、意見をしに行くことになってしまったのだから、まったくの、大きなお世話で、お怒りになるのも当たり前。




 「拝見」と「は意見」。一字違いで意味がまったく異なってしまう。パソコンほど利口者はいない、と思っていたら、とんだ落とし穴が潜んでいたのである。変換ミスをご理解頂ければ、何の事はない、笑い話のような話だが、このパソコンのいたずら、場合によっては人を傷つけたり、傷つけられたりするのだ。いつでも起こり得るから怖い。


キーボード


 助詞とか、接続詞との組み合わせから生ずる変換ミスばかりでなく、同異語の変換ミスもあるだろう。いわゆる、誤字、脱字の類なら「あいつ、バカだなあ」で済まされもするが、それによって文章の意味がまったく違ってしまったら、場合によって「ごめんなさい」では済まされない。大抵の変換ミスは文脈を乱して、意味が分からなくなるからいい。しかし、私のご粗末のように、よく見れば一字、不自然な「は」が入ってはいるものの、全体では意味を違えて読み下してしまえるから始末が悪い。




 手書きの文字だったら、こんな間違いや、そこから生ずるトラブルはまずなかった。あっても「あいつ、また、こんな誤字を書いて・・・」と笑われるくらいで済んだ。そういう自分だって、それをしかねないから、目で笑って終わりだ。

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 しかし、パソコンというヤツは時に、アナログ人間を狙い撃ちにして落とし穴にはめる。キーを叩き損ねて、また打ち直す。変換ミスどころか、そんな悪戦苦闘をしているのだから困ったものだ。パソコン様、くわばら、くわばらである。



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初夏への序奏

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 桜が散り始める頃になると桃の花が咲き始め、甲府盆地は一面がピンクの絨毯の様相を見せる。桜と言ってもこの時季、ソメイヨシノもあれば枝垂桜もある。彼岸桜や八重桜はひと足早く散った。ソメイヨシノが淡いピンクとすれば枝垂桜のそれはもっと濃い。花そのものも重厚だ。花は散る。「散る桜 残る桜も 散る桜」 。


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 今年は桜の開花が一週間から十日も遅れたせいもあって、いつもならその後を追っかけるはずの桃の花がほぼ一緒に花開いた。ご存知の方はご存知。桃の花は桜のピンクより色合いはずっと濃い。枝垂桜のピンクよりもだ。窓越しの庭先ではシバザクラが赤に近い小粒なピンクの花をいっぱい咲かせ、その隣では何という花か知らないが、白い花を可憐に咲かせている。細い葉っぱはニラのそれによく似ている。葉っぱの臭いも同じだ。



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 ピンクの絨毯の向こうに眼をやれば、前衛の御坂山塊の向こうに富士山が。真っ白い雪をかむっている。先日、里に降った雨も3,000m級のそこでは雪。下界の春爛漫をよそに一人、厳冬を装っている。ピンクの絨毯の間に間に真っ白いスモモの花が。盆地の東部一帯、一面の桃園にあって、ちょっとしたアクセントでもある。上空にそびえる富士山の雪とピンクの絨毯、その所々に点在する白いスモモ畑のコントラストがまた絶妙。 富士山から南西に眼をやれば、まだ雪を戴く南アルプスが、日増しに柔らかさを増す陽光に光る。


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 スモモもさることながら甲府盆地は、言わずと知れた桃の産地。果樹農家は桜の花を愛でる暇もなく、その授粉作業に追われる。農協などを通じたり、それぞれが用意した花粉を元に桃の花一つ一つに受粉して行くのである。花に埋もれながらの作業だから傍目には優雅だが、お花見気分とは違って、こちらは飯の種。家族総出の作業に追われるのだ。




 昔は、こんな煩わしい授粉作業などしなかった。しなくてもよかった。花から花へと飛ぶ蜂がいつの間にか、その役割を果たしてくれた。ところが、その蜂がいなくなった今、人間様が自らの手でするよりほかはない。いわば自業自得。人間達が農薬の使用で蜂を皆殺しにしてしまったのだから仕方がない。農家は無駄花を取り除きながら花の一つ一つに丹念に花粉をつけて行くのである。授粉が済んで、実を結べば摘粒の作業が待っている。



 岩手地区というのだが、甲府盆地東部のちょっと高台に位置するこの辺りは桃というより、サクランボの産地。甲府の市街地を挟んで盆地の西部に位置する南アルプス市の白根地区と並ぶ一大産地なのだ。その植生から山梨はサクランボ栽培の南限。本場・山形との気候的なタイムラグを生かしての戦略が功を奏して押しも押されぬ産地としての地位を確立した。



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 特に、山付きの傾斜地一帯には白いビニールハウスが広がり、その中では真っ赤に実を膨らませながら間もなくやって来る出荷期を待っている。こちらは春爛漫を通り過ぎてもう初夏のたたずまいである。23~4日頃には初出荷を向かえ、京浜地方などからの行楽客がサクランボ狩りに繰り込む。露地物のサクランボも、これを追いかける。露地のサクランボも白い花を付け始めた。ハウス物を皮切りに初夏にかけてのサクランボシーズンが幕を開ける。



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摩訶不思議な桜

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 どちらにお住まいかは存じ上げないが、テンテンさんからこんなコメントを頂いた。
「たかが花見、されど花見ですね。この風習が続く限り、日本の自然は美しく残されていくのだと信じています」



 このコメントに私もこうお返事させていただいた。


 「そう言われれば、その通りですね。日本人に花見の習慣がある限り、花を愛で、自然を大切にする心が育まれていくのでしょうね。私のような花をおかずにする飲ん兵衛も一役買っている?のですね」




 飲ん兵衛の一役は、もちろん冗談。とにかく、という花は不思議な魔力を持っていて、人々に春を実感させ、人の心をウキウキさせるのだ。100年に一度の不況だの、なんだのといっても、日本全国、至る所の桜の名所は、今年も花見客で賑わった。当然のことのように、私のような酔客も。

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 毎年、2月から3月になると新聞、テレビ、ラジオは競うように日本列島の桜前線を予想し、各地の地方気象台も、それぞれが持つ標準木と首っ丈で、役にかかって開花宣言を発表する。そこには、平年比、前年比で何日早いの、遅いのまで解説するのだ。人々はそれによって気候や気温の移り変わりを実感したり、農村地帯や果樹地帯では、その作業の目安にさえするのである。




 梅の花からバトンタッチする水仙や、後に花開く桃の花、さらには西洋など外来種の草花もあわせ、一斉に花を開かせる。いわゆる春爛漫を演出する自然界にあってはその象徴的な存在なのだ。山梨、特に私が住む甲府盆地の東部は、日本一の桃の産地。間もなくすると桃の花が満開となって、一帯がピンクのじゅうたんに変わる。しかし、このスケールの大きいピンクのじゅうたんも、やっぱり花としては桜には位負けだ。




 日本人は、なんと言っても桜が大好き。だから映画や舞台にも桜を登場させる。今は全体的に少なくなったが、時代劇、つまりチャンバラ映画には桜がつき物だった。あの遠山の金さんにいたっては、背中から二の腕に掛けての刺青は桜吹雪。北町奉行所のお白州で片方の裃をはずして「手前ら、とぼけるのもいい加減にしろい・・」と二の腕に掛けての桜吹雪を見せながら啖呵を切ると観客は拍手喝さい。いわば最後の見せ場となるのだ。



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 子供たちの学生服のボタンや小学校の校章も、かつては桜をあしらったものが多かった。外国人から見た日本の象徴は、今でもフジヤマ芸者と並んで、やっぱり桜。日本人に桜を重ね合わせるのである。昨年、アメリカのシアトルに行ったとき、ワシントン大学を訪ねたら三木首相時代に日本が贈ったという桜並木が、その構内で幹を太くし、立派に息づいていた。ワシントン州での日米友好の証なのだ。




 桜は全ての花に比類がないほど、散り際がいい。日本人のDNAにある「侍」にも似た共通点がどこかで人の心をくすぐるのだろう。しかも、散った後も「葉桜」という言葉があって、まだ桜が生きているのである。花は散れば終わりだが、なぜか桜だけは違うのだ。


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ビルの林の花粉症

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 「わたしゃあねえ、先日、病院関係の会議に出席するため、久しぶりに東京に行ったんです。そこで改めてびっくりしたのは、マスクを掛けて街ゆく人がなんと多いことか。インフルエンザではなく、花粉症なんですねえ。その数は半端じゃあないんです」




 ロータリークラブの例会での会食中、隣り合わせた仲間の話である。この人は山梨市にある、いわば地域中核病院の理事長で、自らもドクターだ。




 東京は巨大なビルの林。もちろん、公園や街路樹などがあるから、スギ花粉など花粉症を惹き起こす花粉の飛散源がないわけではない。しかし、山梨のように四方を山で囲まれ、その中に点在する森や林。東京と田舎の飛散源の量は比べものにならないはずだ。花粉症を持ち出した、このドクターの話を補足するように、別の仲間がこんな話をしてくれた。


スギ2


 「花粉の飛散は、単なる発生量だけではないと思うんですよ。確かに東京と山梨の発生量を比較すれば、山梨の方が圧倒的に多いはずだ。問題は蓄積度の問題じゃあないんでしょうかねえ」



 「蓄積度?」



 「そう。山梨などの田舎の場合、土などの自然が飛散した花粉を吸収してくれる。しかし、東京のような都市、つまり、ビルの林の中では花粉を消化しないんです」


ビル



 この話、私のように、ど素人でも、分かるような気がする。確かに巨大なビルの林の東京はその一つ一つがコンクリートの塊。網の目のように張り巡らされた道路という道路もどこまでもアスファルトの舗装である。自然の土がないのだから、飛んできた花粉だって行き場がなく、たまる一方だろう。それが沢山の車や人によってかき回されて、また舞い上がる。その繰り返しだ。




 私たちの地域の山や林では、もう少し経つと青い空を黄色くするほど風に煽られてスギ花粉が飛散する。こんな話を聞くと、花粉症でお悩みの方だと即倒するかもしれないが、これホント。いわば、季節の風物詩みたいなもので、私なんか、これと言ってびっくりもしない。それ自体が地域の人たちに免疫を施しているのかもしれない。


スギ



 私たちは子供の頃、この杉林の中で遊んだ。小さなスギの実を使ってスギ鉄砲あそびをするのである。花粉症などという言葉もなかった。それとも知らずに漆の木を使ってチャンバラごっこもした。でもかぶれることもなかった。免疫力も日常の生活や、遊びの中で備わっていたのだろう。今でも漆の枝でチャンバラごっこが出来るかって?まったく自信がない。恐らく、体中、かぶれで腫れ上がるだろう。




 スギ花粉をひとつとっても、その飛散量は、昔よりずっと多くなったという。人間が山を荒れ放題にしたツケだ。かつては、スギ山はヒノキ山と共に宝の山だった。ところが安い外材が入って来るようになって、その宝の山も持ち腐れ。下草刈りや間伐などをしないから、成長を妨げる。子孫を残そうとする本能からスギは余計に実を付けようとするのだそうだ。山を大事にしなくなった日本人が、こんな所でも、ツケを背負わされている?


木



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散る桜、残る桜も…

写真_convert_20120416143633  


 桜、桜と言っているうちに、前線は細長い日本列島をどんどん北上、やがてはどこかに行ってしまうのだろう。手前味噌かもしれないが、私たちは山梨を「日本列島のヘソ」と言っている。その山梨の桜は今が盛りの満開。日曜日、女房と娘、それにご近所のご家族をも巻き込んで、花見の宴を張った。




 舞台は我が家の前にある地域のふれあい広場。かつては我が家の梅畑だった所で、普段はお年寄り達のゲートボールや子どもたちのブランコ遊びなどに使われている。7畝ぐらいの面積で、それほど広くはないが、そうかといって狭くもない。手頃な広さの広場だ。その周りに20本近いソメイヨシノ枝垂桜を植えた。もう何年ぐらい経つのだろう。特に数本のソメイヨシノは見事な枝ぶりになって、今年も溢れんばかりの花を咲かせた。


花見2
 

 花見の宴を張るにはうってつけ。桜の木の下にブルーの大きなシートを敷き、テーブルの上にはサトイモや大根の煮っ転がし、ほうれん草や菜の花のおしたし、ネギの酢味噌和え・・・。みんな我が家の畑で採れたもので、女房や娘の手作りの逸品?である。




 もちろんお酒やビールも。私なんか、むしろ、こっちの方が主眼である。風情のないヤツ、と風流人から目をしかめられるかもしれないが、本音で言えば、花などどっちでもいい。酒と肴があればいいのである。夜の居酒屋やスナックバーで飲む酒とは一味もふた味も違う。時折、盃に風に舞い散る桜の花びらが・・・。


花見3  


 「散る桜 残る桜も 散る桜」


 私のような無粋者でも、調子に乗って、こんな句をなぞってみたくもなる。良寛さんの作と伝えられるこの句、なんとも味わいがある。「散る」と「残る」と「桜」の三つを組み合わせた、一見、単純すぎるほど単純な句だが、考えれば、考えるほど、奥深い。




 「もののあわれ」は古典の昔から、相場は秋。十五夜の月を眺めながら、ものの哀れにしたり、やがて来る晩秋の風、舞い散る枯葉に人生のはかなさを重ね合わせるのだ。いかにも日本人らしい感傷だが、そのシチュエーションはぴったりだ。


月見


 秋は色に例えても白。白髪が意味するように人生も黄昏れ時。これに対して春は青。はつらつとした時期、つまり、青春なのだ。しかし、良寛さんは、春爛漫の桜に人生のはかなさを重ね合わせた。これ、私の読み違いかな?とにかく、意味深な句であることは間違いない。




 そんなことはどっちでもいい。無粋者は花より団子。飲むほどに、酔うほどにオンチな歌のひとつも飛び出す。みんな満面に笑みを浮かべ、大声で笑っている。近くを通りかかる人達もニコニコ笑っている。「俺も仲間に入れてよ」。一人、二人と花見の宴は、人数を増やした。その後はお決まりのコース。「お父さん、あんまり飲みすぎないでよ」。それ来た。女房のいつもの、きついブレーキだ。




 東京は上野のお山の桜、隅田川沿岸の桜・・・。今頃はやっぱり私のような飲ん兵衛が・・・。しかし、不景気なご時世、盛り上がり方はちょっと違うかも。でも、こんな時だからこそ、飲んで、歌あって、明るくしなけりゃあ・・・。これ、飲ん兵衛も言い訳?




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嫌な世の中

子供


 電話のベルが鳴った。咄嗟に受話器を取った私は
「はい、○○ですが・・・」




 当然の電話への応対だ。それを聞いていた女房が、電話が済んだ後、



 「私も、おかしいと思うんだけど、最近じゃあ、電話がかかってきても、こちらは、モシモシだけで、自分を名乗らない人が多いんだってよ」



 「どうしてだ?」



 「決まってるじぁない。悪いヤツがいて、間違い電話を装って悪用するからよ」



 なるほどと思う一方で、ヘンな世の中になっちまったもんだ、と改めて思った。


電話


 電話を悪用する常套手段は、このところ頻繁に被害が出ている振り込め詐欺だ。繰り返される振り込め詐欺の被害。それを防止するため、毎日のように、これまた繰り返される防災無線による啓発アナウンス。誰だって身構えたくなる。




 裏を返せば人を信じなくなるということだ。時にはある間違い電話にしても「もしかしたら・・・」と悪い方に勘ぐってしまいかねないのである。普通なら「間違いました。大変失礼いたしました」「いえ、いえ、どういたしまして」で済むところが、そこに猜疑心を残せば後味が悪いものになるのに決まっている。もちろん、振り込め詐欺など悪いヤツは沢山いるわけではない。


携帯電話


 悪意の電話は論外で、単純な間違いにしても、当たり前のマナーさえみんなが心得ていれば、猜疑心は沸かない。人間だから誰だってダイヤルの仕間違いはあるだろう。その時に一言の侘びもせずにプツンと電話を切ったりするから、相手に不快感を与えるばかりか、その猜疑心まで誘発してしまうのだ。




 大人が間違い電話に一瞬、身構えるくらいならまだいい。困ったもんだ、と思うのは子供への教育だ。親も学校の先生も、子ども達に「知らない人に声を掛けられても、黙っていろ」とか「知らない人に声を掛けるな」と教える。万が一の毒牙から子ども達を守る手段だが、そう教えられると子ども達は、人を疑うことばかりを覚えることになる。


k子供



 一方で、挨拶をしろ、と教える。子ども達は面食らうに違いない。大人たちが設ける街角の挨拶運動を促す標語塔が白々しく映る。考えてみれば、全ての動物が本能的に、この猜疑心とか警戒心というヤツを持ち合わせている。自分を守る手段なのだ。しかし、必要以上に猜疑心や警戒心を植えつけたら子ども達はいったい・・・。万一、子どもが事件に巻き込まれたらどうする、と開き直られたら返す言葉がないのだが・・・。


子ども2


 人間が元来、持ち合わせている防衛本能。それに輪を掛け、ことさらに警戒心や猜疑心を植えつけたら子ども達の心は歪むに違いない。「万一、事故が起きたらどうする」という言葉の裏側に、学校や地域の≪事なかれ主義≫が潜んでいたら、これこそ主客転倒だ。それはともかく、ひとつ言えるのは、大人が物事に過剰に反応し過ぎると、純粋な子ども達に悪影響を及ぼしかねないことだけは確かだ。




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おきてがみ
プロフィール

やまびこ

Author:やまびこ
 悠々自適とは行きませんが、職場を離れた後は農業見習いで頑張っています。傍ら、人権擁護委員の活動やロータリー、ユネスコの活動などボランティアも。農業は見習いとはいえ、なす、キュウリ、トマト、ジャガイモ、何でもOK。見よう見まね、植木の剪定も。でも高い所が怖くなりました。
 ブログは身近に見たもの、感じたものをエッセイ風に綴っています。

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