日本人米軍属の母国進駐
海面はいつも波静かだった。遠くからだったかもしれないが戦艦の姿は一艘も見えず、どこにでもありそうな平凡なクリークでしかない。旅行中、その真珠湾を見下ろす高台の住宅街に滞在中、直感的に頭をよぎったのはあの日本軍の奇襲作戦だ。真珠湾は日米開戦、そして第2次世界大戦の口火を切った舞台である。1941年、昭和16年12月8日の出来事である。私が生まれる1年前のことだ。この事実を知らない日本人も、またアメリカ人もいないだろう。日本とか、アメリカではなく、世界中の衝撃だったはずだ。
「当時、僕は19歳。まだ兵役していなかつた。その日は日曜日の朝だった。真上を何機もの飛行機が飛んだ。一瞬はなんだか分からなかった」
ハワイ滞在中いろいろ面倒を見てくれた従兄弟は私と20歳違いの85歳。れっきとした日本人だが、ハワイ生まれで国籍はアメリカ。2歳違いの日本女性と結婚、今は、もちろん成人した1男1女と、孫4人が近くに住んでいる。夫人はかつて松竹映画の女優として活躍した人。83歳とは思えないほど若く、美しい。とんちも効いた秀才型の女性だ。結婚式の写真には小林桂樹や今は亡き船越英二らの若き日の姿があった。
銀髪に染まった頭に手をやりながら従兄弟は複雑な思いの戦争について話してくれた。
「戦後、マニラやシナを経て日本に進駐した。軍属、もちろんアメリカ軍だ。横浜で船を降り、東京に向かった。見渡す限り、一面の焼け野原だった。真っ先に探したのは、上野桜木町の実家。戦争前、日本に帰っていた親爺とおふくろは私の顔を見てビックリ仰天した。甲府にも行った。ここも鉄筋のビル(松林軒)が一つ、ポツンと焼け爛れて残っているだけで一面の焼け野原だった。薄汚れた衣服を着て、すすけたような顔の中に二つの目だけが鋭く光った少年たちがチュウインガムやチョコレートをほしがって集まって来る。あっちこっちで、そんな象徴的な光景に出っくわした」
相次ぐ空襲、果ては広島、長崎への原爆投下。見る影もなく叩きのめされた日本。住まいはおろか今日のメシにも事欠く人々。それが母国・日本の姿だった。れっきとした日本人の血が流れながら、全く立場を異にした米軍としての日本進駐。同じ日本人だから、その心の複雑さは十分すぎるほど分かる。言葉に言い尽くせぬ切なさを味わっただろう。
5年ぐらい前、やはりハワイを訪れたとき、その従兄弟は真珠湾に浮かぶ戦争記念艦・アリゾナ号に案内してくれた。日米開戦を象徴する、あの真珠湾攻撃の放火を浴び、その日の出来事をつぶさに見ていたアリゾナ号。今なお、この船の底から流れ出る油は不気味だった。あの忌まわしい第二次世界大戦をもたらした66年前の出来事を「真珠湾は忘れないぞ」といっているようであった。
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