性善説と性悪説
性善説が正しいのか、それとも性悪説? 小難しく聞こえるかも知れないが、2歳になって間もないとは言え、日に日に成長して行く孫娘を見ていて、そんなことを考えた。人間、生まれながらに悪の素質を持っているわけないよ。一日中、無邪気に飛び回る孫の姿や振る舞いを見ていてそう思った。
ご存じ、性善説は孟子が説いた。人間は、そもそもは善行を行うべき道徳的な本性を持っている、と言うのだ。人間がしばしば行う悪の行為は、その本性を汚し、隠蔽する行為から起こるという正統的な儒教の人間観である。一方、荀子が首唱した性悪説は、人間の本性はそもそも利己的で、善の行為は後天的習得によってのみ可能になるという説だ。
言い換えると、この二つは、人間は生まれつきは善だが、成長すると悪業を学ぶ、と言うのが性善説。片や、人間は、生まれつきは悪だが、成長すると善を学ぶ、と言うのが性悪説だ。さて、どっちが本当? 分からない。
幼い孫娘を見ながら「この子に悪が宿っているはずがない」と、思う一方で、荀子がいう利己的な本性を覗かせることも確かにあるのだ。かたくなに「イヤ、イヤ」を連発したり、「ダメ、ダメ」と、大人の言うことを拒否しても見せる。こんな傾向は、寝起きの時に顕著。本性とも思えるのだ。孟子の性善説を支持したいのだが、さもない孫娘の言動から、荀子が言っている性悪説も分からないでもない気がした。
「オギャ~」。人間は生まれた時には目も見えなければ、耳も聞こえないが、声を出すことは知っている。やがて、這うことを覚え、二本脚で歩く。言葉を覚えると、自ら言動したり、他人の言うことも聴くことが出来るようになるのだ。時には従順に、一方で反抗もする。母親が手を焼く「かんの虫」という、よく考えると、理解しがたい言葉だってある。
若者達の凶悪事件が後を絶たない。子供が親を殺し、女子学生が、何の恨みもない同級生を殺して「解剖してみたかった」と、平然と言ってのける。「むしゃくしゃするから…」と、何の関係もない幼い子を殺したり、街中で無差別殺人もやってのけるのである。その動機は極めて短絡的だ。
昔も子供が親を殺す事件は、あった。でも今、あっちこっちで起きている事件とは性格が違った。懸命な介護に疲れて自信を失い、親の行く末をふびんに思い、やむなく殺害の道を選ぶケースや不治の病に苦しむ年老いた親を、何とか楽にしてやろう、と手をかけるケース。殺人に変わりはないが、若者達がしばしば起こす短絡的な事件とは、ちょっと異なっていたような気がする。
女性の凶悪殺人事件も珍しくなくなった。カレーにヒ素を混入、地域の人達の大量殺人を謀った事件は記憶に新しいし、結婚を繰り返しながら、保険金や財産目当てに何人もの年配男性を殺害した主婦。「女性は怖い」。世の男性を震え上がらせた。
人間は、そもそも利己的な動物なのか。生きる環境や受ける教育によっても人の諸行は違って来る。性善説か性悪説かではなく、その両方なのかも知れない。
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