言葉の短絡化
時代や歴史の事象を回顧する場合、その時のニュースが引き合いに出て来ることがある。自分の当時の生き様と重ね合わせて、不思議な懐かしさを覚えるのだが、そのニュースを伝えるアナウンサーの語り口調。「へえ~、《あの頃は》は、あんな、しゃべり方だったのか…」。時代と共に知らず知らずの《言葉》の変化に気付かされる。
《言葉》としたのは、語り口調にとどまらず、用語も含めてのこと。例えば、映画の時代劇や時代小説に出て来る、武士や公家の言葉。映画や小説として向き合っているから、何の違和感も生じないが、もし、これを今の日常に当てはめたら…。言葉は人間の思考回路まで変えながら《進化》?して来たのである。
そんな新しい言葉の発祥は、メディアの力であったり、タレントさんのさもないギャグ、スポーツ選手の咄嗟の感激表現などさまざま。「ガッツポーズ」は、ボクサー「ガッツ石松」に因んだものだし、「超○○」は水泳選手の北島康介の感激表現が発端。甲子園を舞台にした夏の高校野球報道でしばしば登場する「アルプススタンド」や「銀傘」などという言葉はマスコミが生み出した。
若者たちが生み出したものも多い。ジェネレーションギャップかも知れないが、若者たちが次々と生み出す新しい言葉。その共通点とも言えるのは、言葉の短絡化。「超○○」の「超」もその一例かも知れないが、その他にもいっぱいある。言葉を短かくするばかりでなく、アルファベット、それも二文字ぐらいで一つの用語表現をしてしまうのである。
Na(ナトリューム)、Ca(カルシューム)、Mg(マグネシューム)、…。果てはNh(ニホニューム)。言わずと知れた元素記号だ。若者たちは、この元素記号さながら、一つの用語を作ってしまう。DJ(ディスクジョッキー)くらいは古い短絡用語だから分かるが、JKとなったら、もう分からない。最近になって知ったのだが「女子高校生」の短絡語だそうだ。こんな言葉は、次々生まれるのだろうが、私なんか、仮にどこかで聞いたとしても、すぐに忘れてしまう。ジェネレーションの違いを思い知らされるのだ。
「文章(用語)の短絡化は日本の文字文化を壊しかねない」
定かな文言は覚えていないが、この拙ブログをお読みいただいている京都にお住まいの柳居子さん「柳居子徒然」から、こんなコメントをいただいたことがある。確かにそうだ。少なくとも私を含めた《ある年齢》以上の人たちは、そう感ずるに違いない。しかし、言葉とは不思議な生き物。忘れられ、使われなくなって消えて行くものもあれば、生き残って「広辞苑」のような辞書に載って、やがては一般に《認知》されるものもある。大衆が何気なくでも使っていれば、それが「当たり前」の言葉として大手を振って一人で歩いて行くのだ。
タレントさん、いや、それを操るプロダクションが仕掛ける漫才やコントのギャグ。多くはテレビなどのメディアによって育てられるのだが、これだって一世を風靡したようでも、いつの間にか消え去ってゆく。しかし、若者たちが《無作為》、《無造作》に作り上げる新語・短絡語はまるで冬草のように根が強く、逞しい。(次回へ続く)
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