刺繍の神業
透き通るように薄い絹地に表側にはダイアナ妃、裏側にはチャールス皇太子。パンダやトラの両面刺繍ならまだしも、男と女、顔形も全く違うお二人の顔を両面刺繍するこの技。どう考えても分からない。表と裏側が反対の図柄になるだけのパンダやトラの刺繍ならともかく、全く違う絵を両面で刺繍するのだから、神業以上の神業。不思議を通り過ぎて、キツネにでもつままれたような気持ちになった。
中国は江蘇省蘇州市の中心街の一角にある刺繍研究所。そのたたずまいは一見、どなたかのお屋敷といった感じ。広い敷地にある幾つもの建物は回廊で繋がっている。もちろん中国風の古めかしい建物で、一階はそれぞれが製品の展示コーナー。二階が主に刺繍の作業場になっていた。二階で作った作品を一階に展示、販売もしてくれる。その値札を見てびっくり。日本円に換算して数万円のものもあれば、数十万円、数百万円、さらに何層もの屏風に描かれた刺繍の置物には一千万円単位の値札が付いていた。
それもそのはず。一枚の刺繍を仕上げるのに一年も二年も、もっと時間をかけるものだってあるのだという。例えば、パンダやトラ一匹を描くにしても、その毛一本一本を、しかも、その部位に合わせて太さが微妙に違う糸を巧に操りながら一針、一針刺繍していくのである。私のようなズボラな人間なら、まっぴら御免。まさに気の遠くなるような仕事だ。かつて何人かの中国の友人に刺繍のお土産を頂いた。全く何気なく貰っていたが、「あれは、高価なものだったんだなあ~」と、改めて心の中で申し訳なく思った。
二階の広い作業場には、大きな作業台ともいえる机が両方の窓側に並び、職人さんが同一の方向に向かって座り、糸と針を操っていた。職人さんはいずれも女性。不思議なことにどの作業部屋にも男性は一人もいなかった。年恰好は30代から60代くらいまで幅広い。中には、見習いだろうか、20代の若い女性の姿も。刺繍は中国の伝統工芸。片や「水の都」でもある蘇州は刺繍のメッカなのだ。刺繍研究所は古くからの蘇州の象徴であり、誇りでもあるのだろう。
パンダやトラなどさまざまな動物、牡丹や蓮の花、湖や太古の山をあしらった風景・・・。中国の南部、桂林に見る水墨画のようなものもある。職人さんたちは、それぞれが作業台の脇に図案の絵を置き、一針、一針、作業を進めていくのだ。原寸大の図案を見ながら人間の髪の毛よりもまだ細い糸で絹地のキャンパスを埋めていくのだから気の遠くなるような時間と経費がかかるのも当然。その動きは実にのんびりしていて、時にはケイタイでなにやら話している。どの作業部屋にもゆったりした空気が流れていた。
そんな作業部屋にも極めてシビアな光景が。どの職人さんも自分の刺繍の裏側は見せないのだ。針を刺す裏側での技を隠すように布切れで覆い、そのテクニックを覆面にしているのである。マツタケ採りの名人がその狩場を我が子にも教えないといわれるように、この人たちも、その技はマル秘。ダイアナ妃とチャールス皇太子の両面刺繍も開発者のマル秘中のマル秘。伝統工芸はそうして守られ、後世に伝わっていくのだろう。
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