花火の町は和紙の町
神明の花火大会
コンピュータ制御だろうか。次から次へと打ち上げられる花火。夏の夜空で繰り広げられる光と音の競演を観ながら、ふと、どっちでもいいことを考えたりもした。華やかに、リズミカルに上がるスターマイン。迫力満点、夜空に花開くニ尺玉。直径は500mにも及ぶ。花火は一発一発の色や形の工夫と、それを立体化する連続技が花火師さんのいわば職人技である。それぞれにテーマがあって、何発もの花火で演出、観客を魅了するのだ。
日本の花火の歴史はそんなに古くない。戦国の時代、種子島に伝来した鉄砲の火薬が後に花火へと発展、江戸の世になって庶民を巻き込んで花開くのである。史実によれば、花火を最初に見たのは徳川家康だという。花火といっても極めて幼稚で、竹筒に火薬を詰め、火を吹かせるだけのもの。今でも静岡県三河地方に残る「平筒花火」はその名残だといわれている。富士五湖の一つ河口湖の湖上祭でも、これに似た手筒花火をやって見せる。
「音はすれども姿は見えず」。華やかな舞台を演出する花火師という名のアーティストは、いつの世も表舞台に姿を見せない。映画や舞台のディレクターよりもっと神秘的な存在なのだ。目の前といってもいいほど近くで花火を仕掛けるのだが、何人が、しかもどのように動いているのかすら分からないのだ。夜陰に紛れた、その動きはいかにも神業である。
どちらかといえば静岡県に近い山梨県の市川三郷町は知る人ぞ知る花火の町。平成の町村合併前は市川大門町と言った。もう30年ぐらい前になるのだろうか。今、甲子園を沸かせている夏の高校野球で、この町の市川高校は準決勝にまで進出。「ミラクル市川」と話題をさらった。たかがといったら失礼だが片田舎の県立高校が、あれよあれよと上り詰めた快挙だから判官贔屓の高校野球ファンやマスコミは黙っていなかった。もちろん花火の町。町の人たちは、ここぞとばかり花火を打ち上げて市川ナインの快挙を祝福したものだ。
この町にはもうひとつの顔がある。手漉き和紙だ。これが本当の町の「顔」である。住宅事情の変化や生活そのものの多様化が足を引っ張って業界はジリ貧状態にあるが、わが国屈指の和紙の町であることには違いない。書道用紙の多くはこの町から出ている。町の一角には書のメッカ・中国は西安の「碑林」を模した「碑林公園」もある。西安まで足を運べない漢字ファンや書道家達はここを訪ねるのだ。
市川手漉和紙 碑林公園
市川三郷町は、その名の通り三つの町から成っている。この市川大門町と六郷町、三珠町が合併して出来た町。残る六郷町も三珠町も、ある意味でメジャーな一面を持つ町である。六郷町はわが国屈指のハンコの町。それだけではない。案外、知られていないのだが、ハンコは通信販売の元祖なのだ。越中富山の薬屋さんが訪問販売の元祖なら、こちらはわが国の通信販売を初めてやってのけた業界なのである。今で言う「ダイレクトメール」はそこから発展した。毎日、ポストに入っているあれだ。
六郷印章業連合組合から
一方こちらはちょっぴり地味だが、三珠町は歌舞伎の市川団十郎発祥の地。先頃、奧さんを亡くした海老蔵の市川家だ。町には歌舞伎公園もあって、歌舞伎発祥の歴史を今に伝えている。大掛かりな牡丹の植栽でも有名だ。こちらは花火の「玉屋」、大川橋蔵の「玉屋」ならぬ「成田屋~」である。
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