仲間達との再会
みんな歳相応のいい歳を取っていた。人格的にである。年月の重さがそうせたのだろう。男性は頭に白いものを頂き、あるいはそれすら失くした人もいる。女性は若い時のあでやかさこそないが、歳相応の女らしさをそこはかとなく醸し出していた。一瞬、誰だか分からないほどの変わりようの人も。人によっては40年ぶり以上の再会だった。
8月末、山梨県の石和温泉郷で、若い頃、ユネスコ活動を共にした仲間達が一堂に会した。約40人。40年前、50年前、山梨県の高校で、ユネスコ活動と取り組んだOBたちだ。ユネスコ部、社会部、国際部・・・。その呼び名はともかくとして当時、山梨県のほとんどの高校にユネスコを標榜するクラブがあった。その卒業生達が大同団結「ユネスコみどりの会」という、今でいうボランテア組織を作ったのである。
当然のことながら、地元山梨に残って農業や商業などの家業を継ぐ者、東京など他都県に出て就職や大学進学をする者。さまざまだった。卒業生達は山梨に本部を置き、東京に支部を設けた。山梨の立地から就職も大学進学も東京が多かった。民間のユネスコは相互理解や国際理解を基調にした平和活動。若者達は山梨と東京で毎月のように定例会を開いて自分たちに何が出来るかを考え、論議もした。東京には溜まり場も出来た。
海外留学生との交歓会の開催、施設の慰問・・・。なんでもした。昭和30年代後半、山梨にもモータリゼーションの波が起こると、甲府の街角に子供たちを交通渦から守るための「黄色い小旗」を設けたりもした。その活動ぶりは新聞の社会面を大きく飾った。今も山梨では当時、ワークキャンプの名で始めた仲間達のキャンプが「国際子供キャンプ」に装いを替えて継続している。日本の子供たちと外国の子供たちの交流の場だ。今年で44回(年)目。かつて主役として参加した子供が親となり、その子供を参加させている親も。
高校ユネスコのOB組織だからメンバーは年々増えていく。後継者にも事欠かなかった。そのパワーは、全国の青年グループに呼び掛けての「日本青年ユネスコ連絡協議会」結成の原動力にもなった。ユネスコみどりの会は毎月欠かさず会報「みどり」を出した。謄写版刷りの全てが手作り。全国の青年グループにも配った。
ところがいつの頃からか、そんな活発なグループにも陰りが。後継者が途絶えるようになったのである。そうなってもう20年、30年が経つ。高校のユネスコ部の衰退と符節が合う。高校におけるクラブ活動の変化は一つ山梨県に限ったことではないのだが、当然のようにOB組織は高齢化した。次第に、かつての面影とは裏腹な道を・・・。
石和温泉郷に集まった仲間達は若い層でも50代後半、主には60台で、70歳を超えた人も。みんなで酒を酌み交わし、同じ釜の飯を食った青春を懐かしんだ。遠路、金沢や海を隔てた大島から駆けつけた女性もいた。酒席の場では「改めて後継者作りを」「また二回目のOB会を」という声も。都合で参加できなかった大勢の人達もメッセージを寄せた。
その翌々日、横浜で神奈川、静岡、山梨、長野の4県で構成する中部東ブロックユネスコ研究大会が開かれた。そこに集まった顔ぶれも高齢化を隠せなかった。時代の趨勢か。
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