「費用対効果」の矛盾
「今のままで自然成長して行けば、大都市は機能マヒしてしまうだろう。故に生産手段も含めて企業を地方に分散しなければならない。そのために新幹線を日本中に走らせ、どの県にも県都の近くに飛行場を作り、国民の移動の時間と距離を短縮させる。それによって総生産量が向上し、利益が増大すれば、これから多分、進むであろう国民の高齢化にも対応できる社会保障のための予算も…(後略)」
石原慎太郎が田中角栄元総理をモデルに書いた一人称小説「天才」(幻冬舎刊)の中の一節。田中の言葉だ。いわゆる「日本列島改造論」の根底を成す部分である。田中の「日本列島改造論」は、もう40年も前のこと。田中が言うように、我が国の都市機能は、もはやパンクする寸前。その一方で、地方は疲弊し、その落差は増大するばかりだ。田中が同改造論で掲げた高速道路網や新幹線は、地方と都市の距離を短くした。先頃開通した北陸新幹線や本州と北海道を結んだ新幹線は、地方の人達に大きな夢と期待を与えたことは間違いない。
当時、「人間ブルドーザー」と揶揄され、大方の国民に支持されようとした田中とその「日本列島改造論」は、あのロッキード事件による自らの失脚を境に潰(つい)えた。田中の言う「地方から田舎をなくす」構想は、少なくとも泡と消えたのである。ただ、その頃描かれ、各地で続けられて来た高速道路の整備や北陸新幹線などは、田中政治が仕掛けた産物であることもまた事実だ。
時代が変わって「公共事業は悪」とでも言いかねない風潮さえ生まれた。ある政権下では「事業仕分け」などと言う付け焼き刃のパフォーマンスまでも演じて見せた。「脱ダム宣言」という響きのいいフレーズで、見え見えの人気取り政策?を掲げた落下傘知事もいた。確かにひと頃、市町村が競った「箱物行政」には、大方が首を傾げたが、地方のインフラ整備、洪水対策や下流域の飲料水の恒久的な確保など長期的な視点に立ったダム建設は必要不可欠。脱ダムのツケは各地で起こる河川の氾濫に証明され、将来もツケを背負うに違いない。治山治水は戦国の昔から普遍の政治哲学とされて来たはずだ。
政治家や評論家、行政官は、公共事業の計画や、その予算付けに「費用対効果」という言葉を使う。うまい言葉で、いかにも科学的、合理的に聞こえる。しかし、この言葉ほど矛盾をはらんだ言葉はない。費用対効果至上主義で公共の事業を進めたら、資本の投下は人口の多い都市部に集中するに決まっている。その一方で、地方は疲弊して行く。地方の過疎化は、裏腹に都市部の人口増大を招き、都市機能を低下させるという悪循環を招くのだ。
地方では、道路網の整備の遅れなんかは序の口。未だに下水道すら整備されていない地域がいっぱい。「卵が先か、鶏が先か」。現時点の費用対効果を言うのではなく、将来を見据えた費用対効果を考えた資本の投下をしないと地方は、絶対に生き返らない、と考えるのは私だけだろうか。「天才」を書いた石原は元東京都知事。口が裂けても地方への資本投下による地方創生など口にすまい。
一方、本当に地方の実態を代弁をしなければならないはずの地方選出の先生達は、何故か口を閉ざしたまま。選挙で「票」を集めなければバッジを付けることが出来ない政治家。「票」の少ない過疎の地域は勢い二の次、三の次?そして普段は東京に住み、選挙が近づくと地方に…。実感だって沸きっこないよね。(敬称略、次回に続く)
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