芝生の緑
山梨市を車で走っていたら中年のご夫婦が庭先の芝生の草取りをしていた。8月ももう終わろうというのに残暑は止まない。山梨も連日30度を超す猛暑だ。麦藁帽子を被り、芝生に座り込むようにしながら黙々と草をとっている。取っているというより、抜いているといった方が正しい。額から汗がこぼれるのだろう。時折、首に掛けた手拭で汗を拭う。信号で一時停車しながら、見るともなくそんな光景を見ていた。
真新しいご自宅の前にある芝生は結構広い。何という種類の芝だろうか。真新しく青々としている。最近、山梨市の田舎でもモダンな造りの住宅が増えた。一緒に造られる庭も、このお宅のように芝生を基調に造られているものもあれば、なんとなく西洋風なイメージのものもある。枯山水や、どっしりとした植え込みを持つ庭は少なくなった。私が住む田舎のこの辺りと違って、町場に近くなればなるほど、そんな贅沢なスペースはないのだ。
第一、今風のモダンな住宅には枯山水の庭や重厚な植え込みは似合わない。日本型の庭だから五葉など松が基調。当然のことながら維持管理に手間暇もかかれば、お金もかかる。今の人たちは、そんな不合理をあえて求めようとはしない。純日本型の田舎家に住む私だって親父や祖父、曽祖父、いやもっと前から引き継がれてきたものだから仕方なしに管理しているのだが、こんな面倒くさい庭など捨ててしまいたいくらいだ。若い時だったら、それに踏み切ったに違いない。
サラリーマンの足を洗って甲府から山梨市の実家に戻って9年。この間に、たまたまだが松3本が枯れた。松くい虫によるものだ。自分で言うのはちょっとヘンだが、見事な赤松と黒松だった。「もったいないことをしましたね」。近所の人たちはしきりに同情してくれるのだが、当の私はなんとも思わない。むしろ「しめしめ」とさえ思っているのである。見事であればあるほど「こんな面倒なものを・・・」と思っても、切ってしまうのは忍びないし、若い頃ならいざ知らず、この歳になったら、そんなことは出来ない。第一、亡くなって久しい親父や祖父たちのバチが当たる。
でも、松くい虫が枯らしてしまったのだから仕方がない。そんな言い訳を心の隅で考えながらも、一方では「この松くい虫め・・・」と恨み節のひとつも言いたくなる。人間とは勝手な動物だ。近所の人に手伝ってもらってチエンソーで切り倒したのだが、そのオジサン、女房にお酒と塩を持ってこさせて≪清めの儀式≫をした後、枝にロープをかけて慎重に切り倒した。「この松は何代もの人たちと共に生きて来たんだよねえ。粗末にしたらいけません」とも。
芝生の庭はシンプルでいい。しかし、これほど手のかかるものはない。草取りを丹念にしてやらなければ、やがて芝生としての体をなさなくなる。コンクリート社会の都会ではいい。そこらここらに草の種がある田舎では、その種を風が運び、鳥が運ぶ。あっという間に草だらけになってしまうのだ。なまけ者には芝生は禁物だ。今年も残暑の合間を縫って植木屋さんの真似事を始めた。これも年金生活者の≪稼ぎ≫のひとつなのだ。脚立から落ちないようにだけは注意している。
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